1980年代・前半、個人的に「アイス・クライミングの舞台」として、発見し開拓に着手し出した「大峰・山系」での、本格的な「アイス・クライミング」が、(某)シヨップでの、噂話から、情報・露出?して。開拓初期からライバル関係として同一・山域に入り出したOCS関係からも、情報が狭い「関西」で、出回り始めた結果。マスコミ関係者も、当時は・この種類の「山・情報」が、関西では存在していなかったので・俄然・注目を集め出した。当時から依頼さえ受けられれば・フル・タイムで「ガイド活動」が、行えていた私には・幾つかの問い合わせが入り始めていた。同じ様に・クライマ−組織、グル−プの中にも私から「情報」を、得ようと、遠回しにコンタクトを取り始める・者も現れた。

初回の入山だけは、神戸のN君が付き合ってくれたが、アプロ−チとも呼べる「今現在」なら。完全に、独立した立派な「アイス・クライミング・エリア」として、著名な「下部」を抜けて。1ビバ−ク後に、取り付いた氷柱からの上部を見て。戦意喪失したパト−ナ−との、敗退・下降から。次ぎの挑戦には関西・以外の地域に住む相棒が参加

「朝日新聞社」からの。取材を受けて、担当・記者との相談時に
写真部・記者が現地に、同行するには、あまりにも条件が厳し過ぎ
るので、ヘリコプタ−を利用しての、空撮から「取材」を始めるか論議
その、時は・初回の「新聞・記事」には、私からの『写真』提供。
情報と共に、記者が編集して、『大峰山での・本格的なクライミングが
新聞紙面に出て。凄い反響を得た。

この、記事と写真のインパクトは、これまでに無い影響力を持って、
いて。80年代当時の「アイス・クライミング・ブ−ム」の先駆け・時期と・
も合致して、関西・以外のクライマ−達にも・刺激を与えてしまった。

『九州男児』頼りになる相棒
都城・山岳会・所属の池田・君

これが、きっかけ。らしく、情報の提供を望む他府県のクライマ−達とも知り合い。現場での再会・そういった楽しい交流も増えたのは、この時代としては『雑誌・以外』の、貴重な現場情報の入手に役立った。他の、ガイド同行・取材の仕事も増えて。同時・進行形で進めていた、他のエリアでの「アイス・クライミング」も目立つ様に、なったが。こういった業務・情報は決して、山関係・特にクライマ−には公表しなかった。

こういった「新聞取材・撮影」、協力の、機会を得られた時代背景(まだ・アイス・クライミング情報が無かった)空撮での・ガイド同行・業務で、得られた確実な「情報」が、増えるに従い『奈良県・北部』を中心として、人知れず・奥山に秘められた「秘密」は、徐々に私だけには解明されて。訪ねる者さえ・いなかった山域に存在していた『大氷瀑・氷柱』での、最初となる本格的で、かつ冒険的な要素を充分に秘めた「アイス・クライミング」に挑戦するチャンスを私は、手に入れる事が出来た。思えば、無駄足・覚悟で周辺・山域を探査・氷を探して歩き、時には真冬の「沢登り」まで、何を好んで・関西で、と店で言って来た大阪のクライマ−が、自慢顔で藤内壁を話題にする程度の頃だから。「朝日新聞・社」の、空撮に同行して、見下ろした景観は、感動ものだった。予感とか予測・過去の貴重な情報からの『夢の継続』が、無駄にならなかった感慨は、行動していない者達には、理解不能だな。冬が、来るのが待ち遠しかった
一般に『関西』のクライマ−達が、感覚的に理解していて。通説としていた。
中京・以西での『氷』は、存在していなくて、年間降雨量・国内、最多。標高や山の位置する環境などの常識・範囲の概念で「アイス・クライミングの場」としては、大峰・山系は顧みられ・再発見されるまでに時間が必要だった。
こういった完全に、否定的な意識や考え方。当時・出回っていた各種・情報「文献」に出ていた「文章・情報」からも、関西の山での本格的な「アイス・クライミング」の可能性は、否定する・もの、ばかりであった。この山域に存在していた・素晴らしい「課題」を、証明するのに『新聞』記事が、果した役割は大きなものだった。

通説・一般クライマ−情報の中で、当時としては唯一の例外「情報」は「沢の世界・ではパィオニア集団=「大阪草鞋の会」が、冬の大峰・山系に入渓して。大普賢岳・北面に存在する「氷瀑・氷柱」の発見を「フォ−ル・ナンバ−」紙面に、記録として公表した事だった。この「大阪草鞋の会」が公表した、記録・以外、以前にも周辺・山域の厳冬期「氷る滝」に、関する報告や記録的な文章が、存在『紹介』されて、いなかった訳では・無かったが・登山者・クライマ−として「場」を探していた者には、そういった地域枠での、限られた「情報」は、残念な事に届いて・いなかったのが実情だった。そういった理由で・山関係(沢)雑誌に、この「貴重な情報」が、発表された事は・関西範囲のみならず、アイス・クライミングに情熱を持ち始めた・多くのクライマ−に「影響」を、与える・筈だった

しかし、現実には、それ程・この時期に「フォ−ル・ナンバ−」の記録を見て。大峰まで、足を向けたクライマ−が、多かった訳ではない。それだけ・情報源としては、強い影響力を持たない・ジャンルに特化した専門誌だったのと・関西範囲には、まだ精力的に、新しいジャンルや未知の要素が・大きく・不安材料のある「場」で、アイス・クライミングに挑戦・出来るだけのレベルに上がった・クライマ−が、多くは・いなかった、のかも知れない。(?)

この「影響」を受けて動いたのは、当然ながら私と、この種類の情報に関しては、当然ながら目を向けていた友人の中村君で、流石・業種的に視点は確かだった。(知る人は知っているが・彼は国内でも初期から本物のアウトドア・ライタ−として活動していた)そして、その中村君から情報を知らされて・同じく素早く動いたのが、OCSの林君で、『白崎のシ−クリフ』情報の時と、同じ様に、活動は私が先行していた。結果的には、その後に私が『新聞・記事」で、情報を完全・公開してしまったので・かなりの人数のクライマ−が、・私達のラッセル跡を追って入山する様にはなった。

『大阪・草鞋の会』の情報を目にする・2年前に、同一・山域だったが、少し位置が離れた「稲村ケ岳・直下」に、氷瀑が連続する・沢が・存在するらしい。とか・・・なんでも・寒波の後に、あの(某・沢)の・あそこの滝は、大同心の大滝みたいに氷るらしいとか、こういった探査にも、下見山行といった実際に、現場を見に行った訳でもない・無責任・系の話題や情報は私の、耳にも入って来ていた。そういった根拠の薄い「話題」の中でも・地域・文献を丹念に調べている人達からは、実は貴重な・過去の伝聞・情報を得られた。反面「山関係」・特に、関西のクライマ−が話題にしている・希望的「場」に、関しては関東の谷川岳や南アルプス方面での・先鋭的なアイス・クライミングへの・僅かばかりながら「嫉妬」の感情が、見え隠れしていて・好意は抱けなかった。大抵、そういった連中は『大峰』には、来なかったのが幸いだった。

前年に。関西ボルダリング・ツア−の名目で、私の自宅に泊まりに来ていた・東京の岩崎元朗・氏からの招待で参加しに行った「小川山」で、開催された『仙人(千人)集会』に、Mさんと二人だけのクライマ−側?ガイドでの出席が、面白かった。沢関係で活発に現役で活動している・全国区の人達と、知り合えて・有意義な企画とも感じていた。この時に、交流を持つ機会が・得られた「草鞋の会」の川崎・氏からも・断片情報とは違った・本人達からの貴重・情報を教えて頂き。その他にも・中々、耳寄りな話も拝聴した。

そういった「情報」と、話題を総合して。新聞「情報」以前の私の「大峰」でのアイス・クライミング目的での、探査・山行が始まった。当時は、後輩達や講習生の中から、暇そうな人に・声をかけては・無駄足を数度、踏んだ。ここは、機会に恵まれれば・・・そう、感じる場所は、確かにあった。
そして、そういった探査・山行で踏み込み・地形図から判断しての「ヤマカン」で、氷を探していた範囲の中に・今では最も利用価値があって、交通至便?「講習・適地」として、私を数年間・開拓・初登で楽しませてくれる『エリア』を発見しておいた。

神戸範囲での・仲間は少なくなり始めていたが、前年までに・海外登山・クライミング(高所系)を精力的に続けて・職業も幾つか変り・ある冬には2シ−ズン、私と共に関西を出発して、「センバの滝」の未登ラインからの完登を・スタ−トに長野・群馬・東京方面へと「氷」を、求めて北へ・北へ。荒川出合・荒船から、妙義へ、まるで「アイス・クライミング・ジプシ−」貧乏ツア−ながら、量・質、共に充実した「アイス・クライミング」を続けて。相棒を務めてくれていたN君を・くどいて誘った。
(関西で・・・・と、最初は疑っていた・らしい)

【アイス・クライミング・ツア−】では、当初の計画では荒船・妙義を終えてから、青梅の後輩・宅に立ち寄り。その次は青森・辺りまで北上しようかと考えていた。後半戦で・良い「エリア」を、発見したら集中的に開拓も良いかも・・・関東方面には、いざと言う時には・頼れる友人達が数人は、いる安心感での北上ツア−だったが。一端、、東京に入っていた時に、急遽「谷川岳」での、エンドウ・コウタ氏の救助を手助けしてくれないかとの連絡が入った。『登山・体系』編集・編纂時の私が執筆していた関西の岩場・原稿を担当してくれていた、大内・氏と、岩崎さん・からの、たっての要請だったので、計画を捨てて・すぐさま現場に駆けつけた。
ただし、『壁』からの・救助作業は終了していて・スノ−・ボ−トの牽引・作業を手伝っただけだが。幸運な事に遭難者の回復は、早かったそうだ。その、彼は・今は文章派として、つとに著名・ただし、当時、現場での会話では、状況が、状況だったので・不適切な言葉を頂戴していても・、しょうが・ない。そう、思っていたが以降・救助支援に関する「なんの」連絡も、来なかったので・・・・個人的には好意は、今も抱けない。

クライマ−に、とっての「遭難と救出」体験は、確かに忘れたい『恥』なのは、重々・承知。私も、経験者だからだが、最低限のマナ−とかは、絶対に必要。穂高でも、似たような経験を数多く、持っている。

最初の「アタック」をN君と行った時には、先行者の痕跡は一切無く。湿雪のラッセルと・今なら右岸を大きく巻くのが当然の「アプロ−チ氷瀑」も、忠実に登攀・突破したので労力は大きかった。「劇場エリア」を越えて・狙っていた本物の氷柱・氷瀑が連続する「ライン」直下のビバ−クの夜は・流石に神経が高ぶり・興奮した。結果は翌日に私がリ−ドで・突破した正真正銘「氷柱」2ピッチで、完全に戦意を喪失していた相棒に即されて下降。
ここまで「大きいとは・・・・予想していなかった」とは、下山後のN君の感想。降りて、敗退してしまえば。何も言う事の無い私は、黙って聞いていた。(だから、最初からデカイ・本物だ、と言っておいたのに)

この時の「記録」を、私が「朝日新聞」に写真と共に提供。これが、『大峰』での、本格的なアイス・クライミング活動・に関しての、一種・引き金を引いた。

「スナ−グとワ−ト・ホッグ」この、多大に労力・打撃力を要求するアイス・ピトンが、このクライミング時には、シャィナ−ドの旧タイプのチュ−ブ・ピトンと共に、メイン装備。欧州でのクライミング時に、東欧圏のクライマ−から購入して来た「チタン・スクリュ−」が最大の武器。

何ら、装備で不安や不足を感じていなかった。
インシュレ−ション入りの・ジヤケットも着ていたし。ビバ−クは北アルプスや八ケ岳の事を、思い出せば「天国」、潅木帯・雪のバンドで焚き火まで楽しんだ、ぐらいだ。

思えば。最初の入渓・時からの3年間が、『開拓期』としては、最高に楽しい期間を楽しめた。

発見の連続は、いつも私が自分のクライミングの中で、大切に考えている『創造性と想像性』を体験・実感、し続ける感動を受け取れて。アイス・クライミングの、実際よりも精神的に、高揚感を覚えたのかも知れないこの『未知の氷柱』を、抜け出せば。技術的な問題を解決するのも、自力のみ、の環境だったので楽しかった。ガイド・ブックやテキスト・マニュアルを頼らない時の、活動が・やはり一番の想い出だから。『危険を甘受』して。

そういった「クライミング」に、小屋の忙しい時期にも拘らず、無理を聞いて貰って。あの危険率の高かった3日間の「アイス・クライミング」」で、パ−トナ−を努めてくれた、九州・男児の偉丈夫「池田つとむ君」には、感謝している。
毎回の事ながら、八ケ岳に住む彼には、私が誘う「クライミング」の場・情報は、唯一・私からの短い・連絡・誘いだけだったから。良く、信用しては、遠方から出向いてくれたものだ「感謝」

赤岳・山頂からのパラグライダ−・飛行時に、行者・小屋前にて池田君に出迎えてもらう

黒部や剣に単独で入り出した10代の頃は、IBS大阪の『貫野さん』に。
20歳代の穂高の頃には神戸登攀倶楽部の、唯一の先輩『金山さん』に一言、連絡している事が、心の支えだった。単独でのクライミングもパラでの厳冬期の危険率の高い山岳フライトも感覚は、同じで仲間や心許せるパ−トナ−が着地点に待っている、そういった精神的な、よりどころ・それを持ってのフライトは物理的な面とは別に、安心して遊べた。
いたって静かだった『開拓・初期』の、短い期間が過ぎて、クチコミ情報にも、この辺りの『氷』の話題が出回り始めて、アプロ−チを含めて『事故者・遭難者』も出てしまった。特別に、悲しかったのは当時、関西範囲では堡塁岩や北山公園、その他『滋賀県エリア』の岩場で、徐々に無所属・若い世代のクライマ−が急速に力を発揮し出した京都範囲の若手の筆頭格、S君の遭難死。彼とは、私の自宅近くのホ−ム・ゲレンデや公園ボルダ−でも、偶然クライミングを楽しんでいて、一緒にロ−プを結んだ体験も数度あった。強引なタイプのクライマ−には見えなかったし、他のクライマ−と常識的な場を利用する穏健派の若手クライマ−として人柄にも優れた資質を見ていた。一度、岩場の帰りに私の自宅に仲間と立ち寄ってくれて、共通の友人の話題や『少し先の将来の夢』を気さくに話してくれたりしていた。彼の突然の訃報は、特別に悲しかった。
彼が、搬出された雪面に薄く、早朝に積もった新雪を痕跡跡に沿って、私は事故の翌日に心の動揺を抑えながら登った。

単独での入山を含めて。試登時に付き合ってくれた神戸の難波君との下段部の最初の突破・体験。そして池田君との、過激な挑戦で得られた満足感。その翌年にも、次の課題、残している『次ぎの夢』更に、連続して毎冬ごとに通い出した頃の、仲間達との記録も初期の4回の『写真の一部』だけが、残っているだけで他の記録は、ビバ−クの夜に書いていた、記録と共に震災後に殆どを失ってしまった。
これまでに20数回は、大普賢・小普賢岳、周辺の『氷』を、求めて通っているが、最初の新聞記事が出てから個人的に、とても嫌な思いを体験している事もあって。クライマ−関係の中には、再び積極的に戻って、関係を結ぼうとは考えていない、嫉妬や嫉みはいつの時代にも存在している。自宅そばのバイク置き場に駐車していた愛用のバイクが放火されたのは『北山・問題』で、しつこい深夜のイヤガラセ電話を不条理に受けていた頃だし、、横尾の避難小屋で小屋荒らしの団体に、若気の正義感を現して戦いを挑み、集団暴行で厳しく、辛い仕打ちを受けたのも、山岳・クライミング関係の情報誌には、取り上げられなかった。故・中山茂樹君・たち二人が窓から、逃げて山荘に助けを呼びに行ってくれなければ、私は死んでいたかも知れない。

初登の権利・云々は別にしても、最初に発見、開拓に取り組み『完登』した、課題にさえ自分で名称を与えられなかった事実や、その現場で私を見ていながら故意に、記録面で嘘を公表するなど、クライマ−社会の、人間としての汚さからは、確実に離れていたいと思っている。

『大普賢岳の個人的な私の夢』は、87年の相棒との挑戦、そして単独での再挑戦での達成感で一つの、区切りはついている。『小普賢岳』とは、別の隠された課題への『挑戦』や『天川付近』そして、もう二つの大峰山系の秘密は、山やクライミングの情報・世界に僅かしか公表していない。ある程度の記録は一般的な『メディア』には公開しているので、別に『秘密』とは言えない。
もう二度と、この素晴らしい場所で他のクライマ−から受ける挫折感や、人の世の醜さを見たくも無いので
『次ぎの開拓』企画で、山中に装備を残して街には降りれないだろう。下山後に倒されていたバイクを、再び始動させて自宅に戻るのは、困難を極めた。
1970年代には、関西範囲で『本格的な氷瀑・氷柱・登攀』
アイスクライミングでの、実体験を持つクライマ−の人数は
少数で、海外クライミングの経験者の中にも、特筆すべき
『記録・内容』を持っている人物も少なかった。特に、特筆
すべき『記録』を私達、若手のクライマ−が達成したと言う
情報も皆無の頃だった。

そういった状況の中で『鈴鹿の御在所岳』や、中央アルプス
範囲で活動していた、中京・名古屋・範囲のクライマ−の中
には、現在の『アイスクライミング・レベル』から、比較しても
意識面で素晴らしいと感じる、実際の『垂直系・氷瀑』に、果敢に挑戦を開始したクライマ−が表れていた。

スケ−ル的には、特別・記録的に素晴らしいル−トを完成さ
せたり、エリアとして完成させた訳では無いが、その目的意識、挑戦意識には尊敬すべき、斬新さ困難を克服する登攀
者(クライマ−)独自の情熱を感じられた。

『数少ない記録』だけに、この当時に達成されている成果が
忘れられているのは、実に惜しいと感じる。

前年に相棒と八ケ岳の、現在『クリスタル』と称されている
見事な氷柱を攀じていたのと、3年間の継続的な冬季期間
の全てを『アイスクライミング・ツア−』に、傾けていたと言えるトレ−ニング環境を、有していたので全く問題なく課題を
解決できた。
最上部の『氷瀑帯』への導入箇所は、岩壁部に張った氷が薄くて、なおかつ日に当っている条件でプロテクション設置は困難で数箇所のブランクセクションを突破する、部分が核心部。
氷瀑帯は比較的、登り易かったが午後の気温の上昇後の稜線直下に広がる『雪面』からの、雪崩が危険要素。
【エンジェルウィング遠望】
奈良県・大峰『大普賢岳エリア』 関西アイスクライミング特選ガイド情報No1
大峰山系・大普賢岳『エンジェル・ウィング・レフト』初登・情報を含む資料記載
技術的な能力よりも、当時に引き抜き時に腕力を浪費し、バランスも崩しやすくリズム良く「アイスクライミング」が、行えなかった当時のリバ−ス・ピックから、より快適に使える徹底的に改造と改良を施した、チュ−ブ・ピックに、このクライミング時までに、同じく徹底的に使用感覚に、慣れ親しんでおいた『ミゾ−・オリジナル・ピック』と、マカル−・タイプから、履き替えて来た『ライト・フットファング・アイゼン』そして、ビバ−クでの耐寒能力の向上と自信で、私達は、かなり余裕で対応出来た。稜線に駆け登り、すぐさま下降。草鞋の会の先輩達が、この山域で始めての開拓に使用した、潅木帯の複雑な尾根を、ラッペルにクライミング・ダウンと数箇所の飛び降り、も交えて、かなりのスピ−ドで下降して、車に戻る前に、アイスゲレンデで遊んで帰るかと、冗談さえ言える状態だった。翌日にはクライミングを楽しみに、六甲へ、相棒は鉱泉小屋へ戻った。
この二人で挑戦した本格的な氷のル−トは、現在では私が探査、開拓活動で見たような『完全・結氷』の、素晴らしい姿を見る機会は少ない。まさに『地球温暖化』の、影響を感じる場所の一つだ。現在でも、以前と同じく最大の核心箇所は、氷が途切れた『ブランク・セクション』に、いかに活路を挑戦・課題を見つけるかに、課題としての関心事も移っているようにも思える。完全に岩壁部に『氷柱/スタンディング・ピラ−』が形成されていれば、傘状に氷柱出口が、被さっていても、現代のアイスクライミングの用具と技術、そしてクライマ−が積み重ねて来た経験と情熱で、突破できない理由は見つけられない。

『この大峰・最大のスケ−ル』を誇る、氷瀑・氷柱の連続帯での登攀のチャンスは、完全に氷柱が、つながった時にしかチャンスが無いのだろうと、昔は考えていたが今なら、氷柱の分断箇所を突破する可能性を、いつ誰が発見し、その課題を達成するのか、私にとっても最も興味を持ち、そして挑戦する『夢』の、続きだ。
84年、85年は数人の講習達、そして単独で、次に長くパ−トナ−として長期間のクライミングにも、付き合ってくれた神戸の難波君。そして、忙しい山小屋・時期にも無理を聞いて、毎回、遠出で各地で相棒として付き合ってくれた、九州の池田君や穂高・涸沢時代からの長い、クライミング仲間の関東の友人達と本当に、良く何度も通った。特に、池田君とは、彼の生活場所で仕事場でもあった『八ケ岳』の氷を、一緒に登りまくった。休暇を街に立ち寄らず、荒川の厳しいアイスクライミングで共に、技術的な課題に取り組み毎回、安心して彼にはビレ−を任せられた。
通年『赤岳鉱泉・小屋』で、働き山で生活していた彼とは、共通点は多くて、多くの開拓クライミングを共にして、この大峰での挑戦でも彼と共にだからこそ、完登できたという気持ちは大きい。
しかし、毎回の事ながら、私の好みや設定した計画や目標に、文句も言わずに毎回、快適な環境とは別世界の厳しい、壁でのビバ−クにも、機嫌よく付き合ってくれた。壁から降りる事を、敗退を拒絶、否定していた頑固な私には、得難いパ−トナ−の一人だ。山から、降りてからは九州の空ばかりで遊んでいるという。
昔の相棒達は皆、まともな人としての社会生活に復帰、もどっていけた。私は、最近になって、やっと、そんな感じだ。穂高時代の長期の涸沢生活から、この国の『クライミング情報』の根源たる、情報もとのクライマ−の、怪しさや不誠実さ、そういった感触を強く感じていた。現場で同日、明らかに作為的な嘘も出せば記録だ。そんな世界に興味を失ってしまう、クライミングは素晴らしいのだが・・・・・