【鈴鹿・御在所岳・藤内壁アイス・クライミング・エリア】

鈴鹿・「御在所岳・藤内壁」エリアは古くから・インサイド系のクライミングが体験出来る「岩場」として、欧州でのクライミングを目指すクライマ−の格好の練習・場所として知られていた。【小川山】等の、岩場が広く・情報として知られる以前には、この「藤内壁」は単に【中京地区】のロ−カルな岩場として・だけではなく。クラックの技術・体験の場として全国的にもクライマ−の注目を集めていた「岩場」だった。
そして、冬季・期間に「藤内壁」での氷雪・技術を学べる「場」としても、この「エリア」は注目を集めていた。

1970年代には、鈴鹿「藤内壁」周辺での、アイス・クライミングは関西からも通う価値のある【場所】として、一般的に良く知られたエリアでした。特に、大阪・範囲に住むクライマ−と京都・範囲のクライマ−は常連と呼べる・初期からの【藤内壁・派】の、少数の先鋭的な活動を展開していたクライマ−が、含まれていました。

当時のクライマ−として、「藤内壁」の価値を紹介したクライマ−の代表者は『高田光政』さん、に代表される欧州でのクライミングで活躍した人達で、「アイス・クライミング」の場として、エリアを紹介したのは、その後の地元・山岳会からの紹介記事でしょう。

『ピオレ・トラクション』と、呼ばれる当時としては、画期的と言われたフレンチ・スタイルの、最新アイス・クライミングの技術が
『記録・情報』から知られ出して、俗に言う「第一次アイス・クライミング・ブ−ム」が、起き始めた頃には『藤内壁』は、不思議な事に「地元クライマ−」からも、その大きな【価値】が、評価されていたとは思えず。西日本・関西範囲のクライマ−よりも、遙かに環境に恵まれ・長野県にも近い名古屋・中京、地区のクライマ−には「ゲレンデ」として・八ケ岳の氷と比較される為か、冬・期間に多くのアイス・クライミング目的のクライマ−達が、押し寄せる事も無かったので、地元ではない、私達「神戸・大阪」が、【残されていた課題】に、挑戦する機会を、得られた。

その頃には【藤内小屋】を使えるほどの余裕も無かったので。専ら「兎の耳」にテントを担ぎ上げたり。藤内沢の中に、あった岩小屋に潅木を立て掛け、ビニ−ル・シ−トで覆った・ビバ−ク地を頻繁に利用していた。秋のうちに拾い集めておいた「枯木を、燃やし燃料費を節約しながら、マイナスの滝から・奥又の氷や、距離の無い当時の手持ちの少ないアイス・ピトンで登れる・範囲の氷瀑を登り込んでいった。

【記憶・追想 藤内壁でのアイス・クライミング】

一番・最初に私が冬の「藤内壁」に入ったのは。当時、高校1年の冬・バイトで御世話に、なっていた【登山専門店の店長】で、「藤内壁」はホ−ム・ゲレンデだと言って差し支えなかった。中京山岳会に所属していた『貫野さん』に連れられて、仕事を終えて・最終の近鉄に乗り。「湯の山・温泉駅」から徒歩で・温泉街を通り。裏道から「藤内小屋」の前を通って、『兎の耳』にテントを張っての1泊クライミングから。一夜のキャンプとは、思えないほどの二人分の食料や装備を、私は担がされても、私は文句は無かった。初めて使った「アイス・ピトン」は、今から思えば・コルク抜き、程度の代物や何度・打ち込んでも周囲の氷を破砕するやたらに重い代物ばかり。左手にサレワのアイス・メスを握りしめ。右手に社長から頂いた・当時の私には家宝物の・ウイリッシュ・70cmアックス・これを頭上で振り回して・指令を受けて、取り付いたのは『藤内滝』こんなんで、はたして登れるものかと思いながらも、カッティングも加えて「落ち口」まで、登り切った時には、つくづく「アイス・クライミング」は、尋常な能・腕力では海外の『氷』等には立向かえない・な、と。
ピトン等は、まともに1本も・効いているとは思えなかったし。あまりにグラグラとする打ち込んだ気休めピトンに体重を預ける気にもならなかったので、休む事も落ちる事も出来ないのが「アイス・クライミング」だと、しばらくは思い込んでしまった。

そんな、悲観的な考えは。1週間も「山の店」で、最新(当時の)アイス・クライミンク用具を見ていればコロット忘れる・年頃なので2週間後の土曜の夜には、再び「最終の近鉄・電車」を乗り継いで「藤内壁」に。上がっていた。
今度は、貫野さんに、事前に教えて貰っていた「中又」取り付き地点まで。一人で気合の入った「ラッセル」で進んだが、この頃の「藤内」の積雪は、今のクライマ−には「証拠・写真」でも、見ない限りは、とても信じられないぐらい深く・重かった。一ノ壁・下を巻く、容易なアプロ−チさえ・知らなかった。情報を持っていなかった頃なので「アイス・クライミング」に来て、最初の関門が真夜中の「岩」だから。中又・下の氷の斜面に掘ったビバ−ク・レッジで、ツエルトで休めたのは明け方・近く。それでも当時の装備で最初の1P目の氷は、快適な「アイス・クライミング体験」だった。前回の入山(冬)時に裏道から、見上げた大氷瀑(中又)に関する、情報だけは貫野さんから、聞いていた。
この、花崗岩の壁の中を、稜線まで続く「氷」を、もうすでに登り切っているクライマ−が、いる事も知っていたが、その後の、自分の「山の世界」の、広がりと共に。ピオレ・トラクション(ダブル・アックス)技術を駆使しての『完登』は、目標の大きな一つとなった。しかし、それは・しばらく待たなければ・ならない「課題・夢」で、高校生レベルでは・この『藤内壁』周辺の、氷を完全に知るには2年間は短すぎた。

『山との出合い』にも、必然・運命的な「時」とか、時期が、ある様に私は感じる。
『冬の藤内壁』への、想いにも、そういった感覚を抱いている。どういう訳か「穂高」の頃と同じく。「藤内壁」でも
冬季に、出会う「クライマ−」には不思議と関東・範囲から、訪ねて来た人達と知り合う機会が多かった。三重県・名古屋・周辺のクライマ−や、京都、大阪範囲のクライマ−とも当たり前だが、出会ってはいたが。
その後の、時間の経過の中でも他の山域で再びも偶然に出会って懇意に、テントや岩小舎の中でお互いの、乏しい食料や酒を、酌み交わして将来の「夢」を、語り合ったのは。何故だか、長野や関東のクライマ−だった。
酔えば、福岡訛り、に怪しい関西弁が混じる、関西人なのに。どちらかと言えば苦手な「地域」の人達と山を通じて
付き合う機会は、「藤内壁」から、多かった。「板橋山岳会」の人達とは、中尾根バットレスを単独・登攀中に墜落・遭難した高校生の救出・作業で知り合ってから、穂高まで長い期間、懇意に親交を深めて貰った。もう、随分の前の事なので、交流も途絶え。鬼瓦・顔の会長の、お名前も忘れてしまい申し訳ない限りだが、名古屋・範囲の「エリア」なのに、私が・その後も交友が続いたのは「関東系クライマ−・長野・山梨、含む」の人達だ。

『藤内壁でのアイスクライミング』は、今現在ではトレ−ニング
環境。ゲレンデ=クライミング・エリアとしての位置付けで妥当
だが、60年代に果敢に挑戦したクライマ−から、引き継ぐ『夢』
への意欲を、持って来訪するクライマ-の数は少ない。
60年代から80年代の年代の、前半に達成され『課題が解決』
された『場』に、通う者達が過去のクライマ−よりも、遥かに恵ま
れた環境に、いながら過去のクライマ−達が挑戦した『課題』に
立向かうのに『勇気』以外の何が必要なのだろうか。
アイス・ピトンに最新アックス。アイゼンに防寒衣料を手にして
情報さえ持ちながら、挑戦意欲を見出せなければ継承系の『場』
が、あまりにも惜しい。
1997年3月1日『視覚障害者のハイキング・クラブかざぐるま』メンバ−の『アイス・クライミング講習会』

2006/04/03 (月) 19:58:57