『神戸新聞』

『読売新聞』

長野県や、関東の友人達からも、後に記事を見たと聞いたので、その地域の『新聞・紙面』にも、同時期に出ていた様だ。

全国的に『各紙の新聞・紙面』に大きく、記事が出た事で「山関係者」にも、好意的に計画を見てくれる人達も増えたが。全く、逆の反応を見せる者も、この時期には実際に数多くいた。

『嫉妬・嫉み』は、人の世の、つね・と、先輩方には慰められたが。深夜に及ぶ「嫌がらせ・電話」や、匿名の手紙・等には正直・閉口した気分を通り越して、正直・精神的な苦痛を受けていた。

2ケ月の欧州での、活動を終えて。
伊丹空港に降り立ち、出迎えの「親父」との会話は短かった消耗し疲労していた。真っ黒だった筈の、髪の毛には前髪には白髪が混じり・それを最初に指摘された。

肉体的な、疲労では無かった。
精神的に、疲れていた。帰国して・準備は遅れて。
入山する日時は、はるかに遅れてはいたが、すぐさま『穂高』に、帰った。岩稜を登り、クライミングの日々を過ごす毎に心の疲れは、消えていった。

帰国・時にはTVニュ−スからの取材にも、笑って答えた。
国内・初の障害者(チャレンジド)の、快挙。成功と、モテハヤサレタ。モンブランの山頂に立った、事が「山の世界」では評価の一つの基準だった。くだらない「基準」だとは、思ったが・それにも笑いながら、答えておいた。本心は出さない。

何時もの事ながら『TV』の影響は、山に戻っても
大きく残っていた。帰国後の空港シ−ンを見ていた
人達も、涸沢に上がって来るので話題は、毎回
同じ様なものだった。

この企画(計画)での成功ニュ−スや評価は意外と
早く、次ぎの相談者や具体的な依頼へと続く。
我ながら、懲りないと思ったが・・・
翌年の春『北尾根』を3回。その中の1回は再び困難な要求に適える為にサポ−ト・メンバ−から準備した。
当時の登山関係での『新聞・記事』としては異例の扱いで全国・各紙に同一内容で紹介された。私の手元には『神戸新聞・朝日新聞・アサヒフアミリ−』等の数紙しか残っていないが、長野でも東京や九州の友人達も読んだと伝えてくれた。
穂高『涸沢』に戻ると、いつもの仲間達が出迎えてくれた。
氷河の山々から、穂高に戻ると緑の色彩が美しく感じることもある。
若い友人達が、交互に訪ねてくれる私の『天幕』は前年に引続き特製の大型なので快適
たまに一人になりたくなれば、稜線に出て一夜を過ごしてから天幕に戻った。
同行ガイドと言われたが内実は渡航費用を含めて、個人の持ち出しが殆どだったので当時の私には
金銭的に厳しいものがあった。装備類に関しても4人分を、下げたくもない頭を下げてメ−カ-を訪ねたり交渉事や格別・困難だった問題も一人で立向かわなければ、ならない環境だったので楽しい海外登山の記憶は少ない。コミュニケ−ション以外の出国以前の【趣旨・目的】が現地で変ったも私には不服滅多に行えないプランだっただけに、現地での有益な活動が行えなかったのは残念。
山ならば、人生の中で再び登り返すチャンスは巡って来ると思っていたので、同じ障害者が国境を越えて交流したり、意見を交わす機会は素晴らしいと当時は考えていた。
MCS国際・山岳プロガイド 舟橋 健
涸沢に戻り、馴染み深い岩肌に触れ、心落ち着く周囲の山々と気心の知れた仲間達に取り囲まれたキャンプ地の夜に、欧州アルプス土産のクライミング話しを肴に酒を酌み交わすうちに、深かった疲労感は少しずつ消えていった。岩稜から、岩壁へ、毎日クライミングの楽しさに浸り、激しくも楽しい課題を無数に設定しておいた『ボルダリング』に興じると、嫌な事や挫折感も忘れていった。