『藤内壁』への、スタ−ト地点として、知られる「テスト岩」から、近い『藤内滝』も、かっては周辺で最も、「雪崩・直撃、箇所」の一つとして、注意すべき「場所」でしたが、現在では、この場所で雪崩が起きる程の・降雪、積雪量を見ることは無いでしょう。しかし、自然は時として、想定外・自分の体験・経験基準を超える「状態・現象」を、見せる事は当たり前なので、この「場所」が、かっては危険な場所で、あった事を知っているのは無駄ではありません。

『藤内滝』ここで、17年〜18年、前ですが『個人・ガイド依頼』で、アイス・クライミングを指導している時でした。
確か、近大の教授を勤められていた参加者と、何時もの様にアシスタント代わりに、手伝いと休養日には、プライベ−トなクライミングにも、付き合っていてくれた、故・黒川君と3人で何度も「トップ・ロ−プ」で練習を繰り返している最中は、強烈な吹雪で氷瀑から落ちて来る「スノ−・シャワ−」も、間断なく。確保で同じ箇所で、止まっている黒川君の半身が、数分で埋まる様な悪条件でした。風が弱まっても、降雪量は一向に減らず、風が弱まって逆に積雪が増え出して来たのを感じて、コレハ・ソロソロ「危ないかな」そう、判断したので。少しばかり時間は早いが講習を切り上げて、小屋に戻ろうと、私が先頭・中間が近大の先生。最後をロ−プを収納して、黒川君の順で、ほんの少し滝下からテスト岩・方向に、向かって歩き始めた途端。まさに、距離にしても、ほんの僅かな部分を下った「瞬間」に、どん〜と・一発」後方からの強烈な衝撃を感じた。瞬間に目の前は、真っ暗。突然の出来事で、完全に身体は雪の中に、埋められてしまった。まず、最初に私が腹這いの状態からザックの背負いバンドを横転しながら、外して雪中から脱出して、後方を急ぎ探すが、誰の痕跡も無く。逆に「雪崩」の衝撃で雪面が、全体的に凹状に窪んでいる様にも見えた。大声で叫ぶと、前方の雪面が動き、雪中からの音も聞こえたので、急いで救出に取り掛かるが、それ程、大きな被害は無く・雪中から抜け出て来てくれた。後方からの「雪崩の衝撃」で、私の後ろを歩いていた2名が、吹き飛んで私の進行方向・前方に飛ばされたのだった。3人目の黒川君を助け出し、、装備を回収する事も出来たのは、滝下から離れていた。「雪崩の直撃」時に、落下地点から離れていた、おかげで。ほんの少しの判断を間違っていたら、たたでは、すまない・かなり「危険」な、状況だったろう。
少し『状況・判断』が、遅れていてノンビリと、トップ・ロ−プでの講習を続けていたら。インストラクタ−経由で、プロ・ガイドに、なっての修業時代の非常に、貴重で・以降の仕事で・何度も教訓として思い出す「出来事」の、ひとつです。『慎重は、安全の母なり』基本中の基本です。

同時期・同じ頃に本当に長期・期間『藤内壁』での、クライミング活動を続けていた頃。
人に、知られていない「穴場」の凍る沢・奥に無雪期に集めておいた木材で補強して設営した「シ−ト小屋」に開拓用の装備を置いて、仕事には『藤内小屋』に、連泊しながら講習会を連日・続けていた時に、私は一度だけ夜間の凄まじい「降雪」で、大量の積雪を見て、翌朝の食料の補充・買出しで「湯の山・温泉」までの、裏道・往復で本格的なラッセルを経験している。小屋・玄関の引き戸が完全に雪で埋まり、半分以上の高さまで積雪で埋まった「小屋」を、この時に初めて見た。平日の暗くなってからの、誰も歩いていない「裏道」は、帰路・時にも降雪で埋まっていて、暗くなってから小屋に戻りましたが、これまでに経験した『藤内』での、最大の降雪だったようです。

そして、その頃に、故・黒川君を連れて『中又』を目標に二人で早朝・小屋を出発したのに、裏道から「藤内壁」に入る看板・箇所から対岸に渡って、最初の斜面から、その日は「一ノ壁」の、取り付きまで・そこまで・さえ到達・出来ないほどのラッセルで、敗退した経験もあります。新雪が身体全体を潜らせ、一ノ壁・下の支尾根に、取り付く「ルンゼ斜面」を、雪崩の危険性も含めて、かなり悪い状態でしたが「ゲレンデ範囲」と、認識していて、当時でも・かなり『藤内壁』を知っていると、自負していた私達には手厳しい「ラッセル敗退」は、プライドを、えらく傷付けられた経験として、想い出に残っています。

あの、夏ならば10分・程度で時間で登れる「テスト岩」からのルンゼ状から尾根の巻き道、手前の斜面です。

当然。雪崩の危険性を充分に考慮しての「敗退」でしたが、若かった二人としては、かなりメゲました
この頃が、こういった寒気や降雪を見た最後の「冬」だった様で、今までに体験した『藤内壁』周辺での体験した、最大・積雪量だったと思います。


1970年代の後半時期から、1980年代の前半には積雪量
は、今現在とは全く違った自然環境下で、大量降雪を見る
機会があった様です。
『藤内沢でのスキ−滑降』や『山頂直下3ルンゼ』から裏道
出合までの、同じく『スキ−滑降』の記録は、小屋の御主人の話からも、昔の小屋の常連達には良く知られた記録です。

『兎の耳』からの、アプロ−チも容易で『藤内小屋』から最も
近い『氷瀑ルンゼ』として、知られていた『ワイワイ沢』にしても、70年代の面影や雰囲気を感じる機会を、90年代から見た記憶が私には、ありません。
最終のスラブに発達した『氷』を、突破して樹氷の稜線から小屋に戻って来る機会も、殆ど無くなってしまいました。

『兎の耳・平』この、キャンプ適地から、少しばかり小沢
を詰め上がった「エリア」は、記録やガイド的な、記述に
殆ど、登場する場所では、ありませんでしたが。
地元クライマ−でも、年配方には良く知られた「ゲレンデ」
として、休日には常連さんが入渓していて一時期は賑わって
いました。『藤内小屋』から、最も手軽で、近い場所だった
ので、私も頻繁に「このゲレンデ」を利用していましたが、
今では、アイス・クライミングを楽しめるほどには沢内の結氷
状態が良くなく。そろそろ、忘れられ出した「エリア」です。

『藤内小屋』に、出入りする前。
まだ「小屋」に、泊まれるほどの余裕も、無く。山はビバ−クか、良くて簡易テントを使って「登る」ものだと思い込んでいた頃。「兎の耳」に、小さなテントを張って。一人では、まだ『中又』の氷瀑帯に取り付く、勇気も湧かず、前尾根や一の壁を単独で登っていた時に『中尾根バットレス』の終了点・付近から、墜落・遭難した名古屋の高校生を最初に発見して、救助活動を開始した『板橋労山』のリ−ダ−から、壁越しに声を・かけられ。私も現場にかけ付けて搬出を協力した。この、時の「救出活動」の記憶は、私にとっては「山の世界」で、初めて経験した人の命を、文字通り「命を懸けて」そういった、現場での強烈な記憶として忘れ難い「体験」でした。

暗闇の中を、下界から作業を応援に上がって来る、人も無く。この「グル−プ」と私だけで遭難者の少年を壁下から裏道まで、降ろして。搬出は深夜に入り出して、時間に追われながら・ようやく「藤内小屋」前まで救助活動を終えて、到着した時。地元の、消防関係者・等、多数の人影を見て、何で、途中まで・でも良いから支援・協力に上がって来ないのだと、腹も立った。暗闇と言えども・小屋から、ほんの少し上までは踏み固められたハイカ−でも、気楽に登り・降り、する「一般道」バッテリ−も、切れかけた私達から見れば少しは小屋から先まで、・救助の手を、足を延ばすべきだろうに・・・・

小屋前で「板橋のリ−ダ−」や、メンバ−の人達が、遭難者を地元の関係者に、引き渡すのを、疲労困憊した私は、何か現実感を失った様な「感覚」の、中で見ていた。


私は、一人で暗闇の中を、薄く・消えかけたヘッド・ランプの明かりを頼りにテントに戻った。
その夜は、疲労していたにも、かかわらず気持ちの高ぶりと救出作業で、濡れた体が寒気で冷え切ってしまって。殆ど眠れない夜を、過ごした。疲労していた、せいもあったが・暖かい・お茶1杯を沸かすのに、手が震えてしまい、食べ物も喉を通らなかった。半シュラフに包まりながら、考えていた事は、世代も近い彼が病院で生き返る事。多分、生き抜いて、くれるだろうと・・・・小屋の前までは、命を感じていたから。

翌日。かなり、気分的には暗かったが、鞭打つ感覚で自分を追い立て。再び、『藤内壁』に、登りに上がった。
昨夜の『板橋労山』の、人達から再び声を・かけて貰って。彼らの小屋・上の台地に張った「快適なテント」に招待して貰った。その後、彼ら「板橋労山」の数人とは、長く個人的な交友も続けて、頂きました。その時の、リ−ダ−に、あの時の話題が出る毎に、私が寂しそうに、暗い雰囲気で、一人で「岩」を登っているのを見るのが、辛かった・・・・そういった意味の言葉を何度か、聞いた。そんな、打ち明け話で、聞いた
『当時』の自分を、思い返すたびに・単独での「冬壁」クライミングでの、自分の弱さを、痛烈に自覚。事故の翌日、確かに、無理をして私は『岩』に、向っていましたから。人の目は、欺けない。

その後。名古屋の店(IBS)から、遭難死した、あの高校生は「名古屋・店」の常連・客で、社員は彼の顔を皆、良く見知っていたと、の話しが大阪・店で働く私の元に届きました。

確かに。私の記憶の中では、「私達が、引き降ろした・藤内小屋」の前までは、彼の、息は微かだったが、命の炎も消えては、いなかったのに・・・・『藤内壁』に、入る、度に・この時の記憶は甦ってしまう。こういった体験が増える毎に、同じ様に・・・・・更に、その後・板橋の人達とは、交流も途絶えて・疎遠になってしまった。穂高を降りて。

『藤内壁』は、今でも・決して安全な岩場でも、クライマ−の山としてのフィ−イルドでも、ありません。
特に、、冬季の目的に向って真摯に立向かう・タイプのクライマ−には。使い方・選択の方法やスタイルで、遊びの環境でもあり。「危険を甘受して、更に越えて・遊ぶ、山の岩場」でも、あるのでしょう。
アイス・クライミングの現場では、その想いを、「人一倍・強く感じている」のは、こういった体験を持っているからです。

『藤内滝』完全・結氷時には講習・適地

当時、遠く「宮崎」から来訪された方達は、あの『宮崎登攀・倶楽部』の精鋭メンバ-。

私の講習生・達と九州からの来訪者
で、貸切「講習・氷滝」と小屋の別館。

『宮崎登攀倶楽部』からは、毎月の
会報を私は送って頂いていました。

送料・負担も滞納なのに・・・・・真に、申し訳ない。そんな、御好意に、お返し出来ず更に、恐縮。

わざわざ。九州から御在所岳「藤内壁」まで、来て頂いた。確か、私のクライミング・スク−ルの新年会・アイス・クライミング講習の時だった。

この頃の『藤内壁』での、アイスクライミング環境は
積雪は、年々・減少、傾向だったがエリアとしての氷結
状態には、それほど不足は感じていなかった。

特に、霙・降雨後の気温の低下でベルグラ状態に
花崗岩の岩面に張り付いた、薄い氷が更に発達した
氷壁状態の環境は、かなりの急傾斜までアイス
クライミングの「場」として使えたので、この『藤内滝』も
小屋からのアプロ−チも近く、確保点も場所も安定して
いて講習には、頻繁に利用していた。当時は、込み合う
ような事も殆ど無く。毎回貸切状態。

『クライミングの南風』
『宮崎登攀倶楽部』
最近では。ここまでの氷結状態を期待されない方が良い。

『藤内滝』での快適な、アイス・クライミングは条件を掴む
のが年々、難しくなっていて。この、公表「写真」時の様な
状態でのアイス・クライミングを楽しんだ人は、少ない。
『鈴鹿・御在所岳・藤内壁』  アイスクライミング・エリア  No2
1981年ごろの『ワイワイ沢での講習』