関西・範囲に住むクライマ−から、考えれば・中京「鈴鹿・藤内壁」のアイス・クライミング・エリアを別に、すれば「中央道」利用で、比較的・短時間でアイス・クライミングが体験出来る「野猿」の岩場と、呼ばれる場所はアプロ−チの短さと比較的・自然環境の厳しさが緩くて・初心者が『氷』に触れるのが容易な為に、以前から利用されて来た。

仕事を終えて、強行・前夜発での、関西圏内からの「アイス・クライミング」は、充分に可能なエリアで、1970年代から私達も、「藤内壁」と共に、日数的な余裕が取れて・かつ少し、本番クライミングに出・損なった時や、中途・下山した場合には迷わずに、この中央アルプスの麓・車を降りて簡単に氷に取り付ける『野猿の岩場』を利用していた。感覚的には、当時から『ル−ト』を登りに行くという・感覚とは違って。トレ−ニング環境の良い「場所」としての認識が強い・フィ−ルドの一つで・今の様に数多くの『情報』が、出ていなかった頃なので、この『ゲレンデ』は貴重な環境だった。

(写真)『野猿の岩場』

C沢の「壁・滝に発達する氷柱・状ライン」
俗に・称される『氷柱』とは、違うが氷瀑が形成される場が、垂直に近い『壁』で、状態が良い場合は・中々・立派な氷の柱の様にスタンディグ・タイプに氷が発達する事から「氷・柱、状」と呼び称されて来た。時々・厳密に表現する事に・正確さを要求するクライマ−が、「氷柱」では、無いと発言・指摘するが。自然の造形美・個人の感覚的に見た『感想や形状・説明』に、それぼど数学的?傾斜や区分の為の、必要事項を解説して・名称に文句を言う必要を私は、感じていない。
60年代から、一般的に利用・使用されて来た「通称・名称」ならば、それで良いと思う。

『エリア全体』の、固有名称が「野猿の岩場」と、呼ばれていますが・冬季・に「猿」が・出没するのか?見れるのか?他の季節に、そういった『猿』の生息・活動が盛んな「場所」なのかを、私は知らない。少なくとも『冬季』期間で、私が30年ほどの利用で、車道・車中からも、クライミング時にも、それらしい姿を見た記憶は無く。
何となく?「猿かな」と言う、影を見ただけで、一度も、出会った事は、ありませんが、「岩場」と・呼ばれる「場」の雰囲気は積雪・氷で覆われていても、僅かに「滝・岩」部分から、見え隠れはしている。
実際に「無雪期」に、岩が利用されていると言う話は聞かない。

(左・写真)年々・C沢を含めて・結氷状態も悪く・氷の厚み。全体の氷の規模も縮小・傾向。

以前は(1970年〜1980年代) 冬の間は居住していた神戸・周辺からの、数少ない氷瀑・体験。実際のアイス・クライミングのトレ−ニング場所として「野猿の岩場」は、私にとっては貴重な「エリア」だった。
それは、当時・可能な限り・時間と費用。主に資金面で出発できればパ−トナ−達と・、クライミングに行きたかった「南アルプス方面」での、ル−ト・クライミングと、とても費用も時間も、自分の技量をも超えていた「膨大な予定リスト」の中の・ル−トに行けない。現実的な問題を、一時でも忘れられる【比較的・費用】を節約して、通えるエリアだったからで、『エリアのスケ−ルや内容』に、必ずしも満足していた訳ではなかった。

この頃には。私は神戸から、大阪の若手クライマ−達に精力的に、働きかけて『荒川出合の・氷瀑エリア』にも、夜叉神・峠を越えて入山。一度、入れば持ち込める・背負える・限界の装備・燃料と食料を担ぎ上げての集中的なクライミングを信条としていたので、アプロ−チで悲鳴を上げて、二度と一緒の山には付き合わなくなった若手も数人、出て来たが。鈴鹿の「藤内壁」にも、積極的に入った。
この時も、地元『中京・範囲』のクライマ−が、目を付ける・活動を始める前にと急ぎ・大阪範囲から若手のクライマ−を呼び集めた。当時の仲間の多くは、林君を筆頭にOCSメンバ−が多かった。若手のクライマ−との、出会いは私が、関西では初の「山岳8mm映画の会」に、関東からヨセミテのスライド等・最新・情報を個人的に借り受けたり。ジョン・パ−カ−の写真「スライド」も見れた、数少ない関西系のクライマ−だったからで。精力的にイベントを主催していた、おかげで広範囲の関西クライマ−(絶対・若手としか交流しなかったが)知り合えた。映画会・クライミング・スライド(海外)映写会に、これも山岳・雑誌にも取り上げられたり、関連記事を執筆したりと、賑やかだった「テント・カ−ニバル」とか、アウトドア・クッキングの企画でも・他の既存の『山岳会』等とは・全く、異なる新しい活動形態や、私が、関西では数名しかいないガイドで、かつ最年少=若手ガイドだった事も、有効に働いて、パ−トナ−を若手と組める機会も増やせたのが幸運だった。

80年代・後半に入ると「このエリア」の情報も数多く・出回り。中京・地区のクライマ−に、とってのホ−ム・ゲレンデ化して来て、クライマ−の絶対数も多くなり、私たちから見ると・徐々に距離と時間を考えると、少し込み合う事も理由の一つだったが。やはり、少しばかり『中途半端』=本格的なル−トやエリアへ向う・途中・経過の「場」としても、内容に不満が残り。温暖化の影響も、大きく受ける「「標高や環境」も重なって、やはり『関西・神戸、大阪・方面」からは足が向かなくなった。

私にとっては、冬期間に、神戸方面から出ていても。春から秋の季節を過ごしている『穂高』で、圧倒的に関西勢より多く、入山していて知り合う人達が、年々・増えて。個人的にも懇意にしている組織やグル−プが多い。名古屋・周辺の若手のクライマ−達と・再会する機会の多い「野猿の岩場」は、冬季の情報・入手・交換の「場」としても、大切だったが、その『場』は、年々、八ケ岳の『赤岳・鉱泉小屋』と野営地に完全に移り変わり出した。『藤内小屋』も、同じ様な感じで・関西の岩場で出会うクライマ−の限られた人数よりも中京から、関東・そして東北から穂高や八ケ岳を、同じ様に登りに来る『クライマ−』との交流・交友に大きな、刺激や情報を得られていた。

私達が、関西から「遠出」して。この周辺・山域に「アイス・クライミングの場」を、求めて、やって来た頃は。時間的な余裕が、他のクライマ−達よりも格段に、あった頃なので

この「ゲレンデ」として、認識・利用していた
『野猿の岩場』は、徐々に通い慣れるに、つれて、予備的なエリア感覚として、メインの目標・計画ル−トは「千畳敷へ。お金を支払っても・・・・当然か」ロ−プ・ウェイ−に乗って。宝剣沢のF沢で、遊んだり。ツバクロ沢とか、反対側・木曾・方面の『悪沢』そして、当時の「課題」の未知・未登の「滝」等に、当然ながら目標を定めての「遠出クライミング」その、時期でも、やはり「野猿の岩場」での、アイス・クライミングは、標高的にも、本格的な山から比較すれば格段に低く。乏しい装備・食料でも「連泊・雪中キャンプ」でも、貧乏クライマ−にも、充分に楽しめたので、当然。アイス・クライミングの記憶も「ここは」楽しい、ものが事の他・多い。

(左・写真)A沢・奥の大滝を登る・舟橋
81年から、88年まではガイド講習にも頻繁に利用していた。本流からの・入渓・地点の堰堤も全て
凍っていて、意外と短い沢ながらピッチ数が、あって楽しめたル−トだと言える。(当時なら)

少ない・プロテクションでスピ−ディに、駆け登るのを目標に。最上部の小滝を登り終えて・すぐさま下降して。1日に、同じル−トを数回・登り降りして。暗闇と競争して『本流・渡れる』箇所を見失って・寒中・・
渡渉でズブ濡れで「雪のキャンプ地」で、豪勢な焚き火で生き返ったりと、随分と馬鹿なトレ−ニング方法を、真面目に取り組んでいた。

最も、頻繁に通って来ていた頃は、いたって・静かな「ゲレンデ」だと、思っていた情報も『岳人』等にしか出ていなかったので、出会う少数のクライマ−が、地元の中京・範囲ではなくて群馬や埼玉といった事も多かった。不思議なのは関西範囲で、奈良県・等のクライマ−の姿も、見受けられ出しても「大阪・以西」の・クライマ−は、極端に少なかった。大山・北壁も、その当時には「クライマ−』が、訪れる事は、少なかったので例外の「紫岳会」とかの・幾つかの組織・以外の人達が、どこに練習に行ってるのかが不思議ではあった。有馬『七曲滝」を使っていたのが、私一人の頃だから。

『C沢・3段目を登る・神戸のN君』一緒に、荒川出合も千波の未登ラインも完登

人と違って。「野猿の岩場」や「八ケ岳」に通い出す前に、ひたすら『藤内壁」で、一人で修業を積んでから。
「伯耆大山・北壁」の『天狗沢』での・本格的な氷・ル−トと、壁でのクライミングを楽しみに
毎年・定着トレ−ニングに通っていた

(左・写真)
90年代に入り「野猿の岩場」も、他の多くの「アイス・エリア」と同じく。いや、他エリア以上に、毎冬の『氷瀑』状態は、悪くなって来た。
この、写真(C沢)1段目も・10数年前の様には、大きく発達した氷が形成される事は、滅多に無く。氷の厚みも・薄いのでシ−ズン中は多数の、クライマ−が利用するので、、この写真で見られる様に『氷面は・ボロボロ状態』で、ある事が多くて・残念。

(右・写真)のタイプが「野猿の岩場エリア」には
かって1箇所あったのに、最近では地形の変化か?
存在して、いない様だ。

MCS 国際山岳プロガイド 舟橋 健

この。神戸のクライマ−では、当時のキャリア・レベルから見て。最も、国際派で、総合的なクライミング能力に秀で、ていた若手のN君も、今は山を降りた

数年ぶりに再会したのは、共通の後輩・古くからの付き合いのあったK君の、葬儀で、あった。

この「垂直・系のアイス・クライミング」を、気楽に仲間達を誘って登りに来れたので、当時としては、かなり珍しかった世代の講習・生や、あまり山には深入りしない・他・アウトドア・ジャンルの友人達も、アイス・クライミングを実際に体験できた。こういった、場所は【関西・エリア】では、90年代に入るまで・本格的に開拓を進められなかったので、私しにも貴重で・大切な「エリア」だった。

『大峰・御在所』が、TV映像で、実際のアイス・クライミングを紹介・放送する以前には、この『場所』が、関東・以西では唯一の現実的に「撮影・取材」最適地だったと思われる。

2006/03/30 (木) 15:35:16

『確保者・不在。写真を撮れ、撮れ、と指示していた頃だから。落ちないし
【中央アルプス 大田切川・野猿の岩場】
        (アイス・ゲレンデ)
『C沢』完全結氷ラインをリ−ド
する舟橋 
1981年1月
【野猿の岩場アイス・エリア・A沢にて。完全結氷】 カリフラワ−状アイス
C沢を目指して登って行く短く容易なアプロ−チ
修業時代に、通っていた『野猿の岩場』では、他のクライマ−達は少しでも夜を快適に過ごせる様にと乾いたテント設営場所を求めて、バスの駐車場所や空きスペ−スのある車道に集まっていた。群れるのも嫌いだし、他の団体の横で騒がしい夜を過ごすのも遠慮したい私は、毎回だが可能な限り、そういった車道のアスファルトから離れた、林の中に入り込んで河原側の樹林の中に『開墾?整地』した、自分達だけの野営地・キャンプ・スペ−スで、本格的な『雪中露営』を楽しんでいた。やはり、手軽な『ゲレンデ・エリア』と言えども雪中でも『焚き火』が、したかったから、と言うのも理由の一つで燃料・費用の節約と言った切実な、貧乏クライマ−特有の理由もだ。