一時期は「クライミング」と言えば仏系の氷河を抱いた山々を舞台としたアルパィン・クライミングを呼び称されるのが、普通でした。特に、フランスのシャモニ−を舞台に、様々な映像で素晴らしい『情報』を見せてくれた「ガストン・レビュファ−」が紹介したクライミングや、当時のクライミング雑誌の『写真」からの、影響は強かった。

その、時代の中で『六甲山』からクライミングを学び始めた私には、俗に「レビュファ−・スタイル」と呼ばれる当時のクライマ−達のスタイルと、共に皆が憧れる、そのクライミング環境である欧州アルプス・モンブラン山群への強い・興味と憧れを持ちながらも、あまりに強い影響力から受ける刺激に対して、反感を持ち。何か、違ったスタイルなり、異なるフアッショや地域を無意識ながらも探すような天邪鬼な気持ちも、併せ持っていた。

高校1年の時に、大阪(梅田)の丸善で見つけた初めての洋書・クライミング雑誌が、見たことも無く・他の先輩クライマ−達も知らないという独語の「アルピニスムス」だったのが、何か新しい発見の様にも、他の人達とも違う
「秘密」を、見つけた様にも感じて。

1年間の購読を決めた。読む事も適わず、辞書さえ持っていないのに・・・時代は「英国・発信」のマウンテンに、向きつつあるのに、人真似より、写真だけ・図を見て。想像力を働かせながら、数行を悪戦・苦闘の末、解読しながら、意外と楽しんだ。おかげで、数十年後に『ビア・フェラ−タ』を楽しみに、渡欧した折に・その頃の本当に古い・記憶の中の資料が役立った。

独語・圏では『クレッティ・シュティ−グ』と、呼ばれる・その遊びを今から30年ほど前から私は『雑誌・写真』で、知っていた。当時は、それが・どの様な「遊び・ジャンル」なのかを、正確には理解していなかったが、知っていた事は実際に現場を訪れた時の「感動」を、確かに倍化させてくれた。

はっきり・チンプンカンプンな独語のクライミング雑誌を、生意気に眺めながら。バイト先で出合ったのが
『英国・発信=マウンテン』だった。こちらは、何とか単語は辞書を頼り。地図を探せば最低限の『情報』は、解読?可能。
英国がクライミングやアルピニズムの本家・本元、元祖系・いわゆる『六甲山』から、始まった日本のロック・クライミングの先生・先輩国だと言う事ぐらいは、知っていたので、英国には自分が知っている北アルプスや体験していた。地元の関西の「岩場」よりも、遙かに素晴らしい「山岳・環境や岩場」が、あるものだと短絡的に考えていたが、徐々に情報を読み解くと・何故か、標高にしても。山のスケ−ルにしても日本と同じ「島国」の英国には、私が想像している様な「環境」は存在していない。それが、アルピニズム発祥の国から・六甲山に、持ち込まれ。RCC等に技術的な影響と示唆を与えた「国」との、ギヤップが釈然としない疑問として私には、とても不思議だった。

その、不思議な国で2年間、近くの月日を過ごすとは。その頃には考えも及ばなかった。
高校3年間に、情報・資料を集め。計画していたのは反発もあったが、やはり『欧州アルプス』であり。格好の良い、仏系ガイドが花崗岩の壁に挑み、氷河を足元の岩壁でのクライミングであった。その為の渡欧・手段は絶対に新潟・発。ハバロフスカ経由・モスクワからシベリア鉄道でフィンランドへの、遠く長い「旅」での欧州アルプス行だと、思い込んでいた。

『英国・イングランド』に、長く滞在していた。
しかし、都会の「ロンドン」に居住していた、期間や時間よりも私の滞在・期間の時間の多くは、北へ・北へと向う意識に同調していてスコットランドや辺境・北部エリアの島や、海を渡った似た様な「国」を旅したり、定着しての山岳『高地』の生活に費やされた。

予想通り。『英国』は、不思議な国ではあった。
クライミング環境は、面白かったが。入国してからしばらくは、岩場を探すのにも苦労した。装備を何一つ、出国時には持ち込まなかったので特に北では、寒さに耐えるのが辛かった。

入国後に、しばらく住む事が出来た、建物は中々に立派だった。無論、天井裏・部屋だが、環境も申し分なく
静かな「純粋・英国風」フラットの一部屋は快適な、空間ではあった。建築物としての、歴史的な価値も高く、内部の調度品も見事で、管理者の神父さんや、行き交うシスタ−達も、当然ながら差別的な人達ではなかった。クライミングに出れない時には、この写真に出ている、様に通行人や建物から、出入りする人達・居住者の目を、かいくぐり・ビルダリングで少しばかり鈍ったクライミング感覚を戻すのにも、壁とかが役立った。

今でこそ。『フリ−・クライミング』はスポ−ツであり。
ライフ・スタイルの一つとしても、選択する人達がいて。
ある種のジャンルの中では意外とメジャ−な、遊びとしても広く知られ。環境も一昔前の事を、思い返せば『営業・室内・壁』の充実も含めて、中々の・ものだ。
しかし、この1970年代の初期には、私が見た。体験した「フリ−・クライミング」は、中々に衝撃的かつ、本物の『純粋系』だった。

当時は『明星山』での、関西では決して体験・出来ないタイプの石灰岩クライミングの、課題に取り組んでいた。出国・時の期待は、どんな岩質・環境でクライミングが、楽しめるか?

出国、以前に私の乏しい『現地・情報』では、英国にはロック・クライミングの場や、本格的なアイス・クライミングの場が、国土の中に点在していて。日本と違って、そういった山地を訪ね歩くのに、、若く・貧乏でも「道路網」を使い

『親指』1本を、立てながらの
ヒッチ・ハイクで、比較的・簡単に各地を回れると、そんな環境でクライミングも体験出来るだろう。一種・無銭旅行・者には夢の世界が広がり、気楽に各地を渡り歩きたいと、単純な希望を持っていた。確かに、日本では、この種の「方法」で、山へ向ったり。クライミングの場へ移動する事など、思いも寄らなかった事なので、最初に道路に出て、『親指』を、向けて止まってくれる車を待つ間はドキドキものだった。

厳しい論理感に、守られ・成長して来た『英国』でのフリ−クライミング体験

私が、欧州圏で最も・好きな『国』
本来は、グレ−ト・ブリテン=英国の地方
と呼び称される『北の土地』なのだが、実際
には、スコテイッシユと自称する人達が、住む、この土地は『スコットランド』と、一つの
国と、呼びたい。

私が、お世話になった人達も、それを望むだろう。北の辺境地・そんな感じの土地には
心優しき人々が、住んでいた。

『英国・最高峰』勿論、スコットランドで
一番標高の高い『山』でもある。
日本人には、殆ど知られていない。
当時は、東洋人で、この辺りまで観光でさえ来る者も、珍しいと言われた。
登らなければ、ならなかった。

霧で霞む、山頂で見た物には驚いた。

2005年、現在で私は50歳に、なったが。この時は、若干?19歳だ。感受性や好奇心に、満ち溢れていたから。何を、見ても感動、感激したのでは無い。まだ、設置されて新しいと見えた『一枚のプレ−ト』が、山頂の一角・比較的、大きく積み上げられた『ケルン』の、一面に填め込まれていた。

『ヒロシマの悲劇を、二度と起こさない為に・・・・・・』
数週間、前に【霧の都】とか呼ばれている都会で、一人・寂しく『反戦デモ』の、列に並んで、歩いていた。

寒い『山頂』で、ある種の感慨を持って、しばらくは・そのケルンに張られたプレ−トを見つめていた。

日本の友人達からの、手紙には「英国」のイメ−ジから緑の牧草・地帯の牧歌的な雰囲気ばかり、とても本格的なロック・クライミングの場・など、ありそうにないと心配している仲間も、多かったが。実際は観光地としての「ロンドン」や、観光客が周遊する、イングランド南部は、確かに緑豊かで、丘陵地帯が続く、何となく平坦と言うか「山」の、存在を感じない国土と思われているが、北へ向うほどに、そのイメ−ジは徐々に払拭される。特に、北部・西部の地方・各地には山岳地と呼べるほどの地形が多く。山は多く、起伏も、景観も素晴らしいと思った。
英国人から、見た「田舎」は、大抵は地方の山や高原・地帯で、夏には大勢の避暑客や観光客が訪れる、これらの地帯でも、冬季には日本の日本海側に似た、環境と雰囲気で訪れる者は少ない。
特に、最北部の『スコットランド』の、山々は素晴らしかった。

「メル・ギブスン」の『ブレィブ・ハ−ト』と言う、映画を見るとスコティッシュ(スコットランド人)の、長年に渡る侵略と抵抗。確執の歴史の一端を、垣間見る気がする。そういった、個人的な、北の国への想い入れは、この頃から単純に感じていた。遠い異国で、しかも荒涼とした誰も登って来ない、辺境地の『山の山頂』でこの国そのものに親近感を抱いてから。

『スコットランド・ハイランド』地方には、独特の文化と歴史が、生活の中で息づいており。登山・クライミング環境も俗にブリティッシュ・英国の、日本で良く知られた、もの・とは違っていた。
クライマ-の気質も、私達が書籍・文献で知りえていた英国風とは、少し違う。代表的なクライマ-として、著名なのはハミッシュ・マッキネス氏などの、気骨・誇り高きスコティッシュ・クライマ-が、存在しているが日本のクライマ−には、その名を知るものは少ない。こぐ僅かに初期のアイス・クライミングの発展期に「ペック」の名称で登場した、メタル・シャフトで当時としては最先端なアックス。この当時としては斬新な「ピック形状」は、受け入れられるのに時間が必要だったが、Wアックスのテクニックと同義語。それぐらい進歩的な用具の発案、制作者がマッキネスで金属製のチヨックも製作していた。時代の最先端を進むクリエィタ-であったと同時に「レスキュ−技術」に関しての、世界的に見て最も権威のある指導者としても現地では著名。スコティシュの間では、このクライマ-は人間国宝なみの尊敬を受けているそうだ。
たまに、街に出ることがあった。耐乏・節約生活が続く日々の中でも、古城や美術館・博物館には足を向けた。「スチュ−デント・ディスカウント」の普及している部分には、文化の水準を感じていたクライミング・シヨップは少なかったが、日本からのクライマ−等が皆無の頃なので、どこでも歓迎され『店』に立ち寄った事で広がった交友関係も多い。
20年ぶり。再訪
『秋のウェ−ルズ・スノ−ドニア』で体験したフリ−クライミングで挑む『クラック』も、衝撃的だったが『世界的に見ても』珍しい、このクライマ−が所有し管理する『ハリソン・ロック』で体験したフリ−クライミングも強烈だった。
伝説だと思っていた線路沿いのアプロ−チに線路軌道の手頃な『小石』をチヨック代わりに拾ってはズボンのポケットに入れる事や、鉄杭を拾っては喜色満面、喜ぶクライマ−の姿に高校時代の自分の姿が、無理なく重ねられた。『妙号岩』への線路のアプロ−チで拾った鉄杭が懐かしかった。
装備が乏しいから『ランナウト』する訳ではなかった。根性が違い、意識もスタイルとモラルも違う事を知るのに、たいした時間は必要ではなかった。

当時、チョ−ク(滑り止め・汗止めの手に塗る炭酸マグネシゥム)の存在は知っていたが英国・エリア範囲での実際のクライミングで使用しているクライマ−を見たのは数人だった。地域も特殊だった。
多くのクライマ−のコンセンサスは使用しないこれが前提だった思われる。

履物や他の確保用具に関しても『厳密な規定』が看板にもガイド・ブック(トポ類)にも、はっきりと明記されていて靴底が硬い履物でさえ、使用が禁止されていた。クライマ−管理の岩場の歴史は、岩場の使用以前に保護と保全にも大きく、影響を与えていて、ある意味での羨ましさ・嫉妬さえ感じるほどだった。

何かのチャリティ−の行事で教会で格安で購入した
唯一のクライミングで使える、スニ−カ−を最初は使って
壁基部で『ボルダリング』を楽しんでいた。

『フェアリ−テ−ル』の森奥に潜む、静かなボルダ−で
一人過ごす、休日の午後は至福の一時だった。

クライミング・シュ−ズも滑り止めのチョ−クも、無くて
着る物も、昼食に食べるパンも、持てなくても週末には
フラットから、一路線だけバスに乗って郊外に抜け出ては
ヒッチハイクを頼りに、森の岩場に通って行けるのは楽し
くて、荒い岩肌で擦り切れた運動靴の先端から、足指が
出ていても、あまり気にもならなかった。
この頃のクライミング体験は、本当に純粋だった。
単純に岩に触れる喜びを、満喫していたと思う。
2005年の報道でエルトン・ジョン氏の結婚式を知った。同姓(男性・同士)の合法的な婚姻。英国らしい、そして、やはり英国なのだと感じた。入国、間もない頃に住んでいた地域と通りはアルバイト帰りの夜になると、当時の私には少しばかり刺激的ではあった。日本では見ることも無い男性用の下着専門店や変った「書店」に車道に出てはビア−ジヨッキ−を傾け合っている男性カップルばかりの「パブ=飲み屋』など等・・・・・自由が、そこには存在していた。少なくとも当時の日本よりも。そして今も
貧富の格差?子供の頃から『六甲山の麓』山の手と浜街、北から阪急・JR(旧・国鉄)そして阪神と乗車客の層が一目で理解出来る生活圏に住んでいるので、別に目新しい価値基準ではない。。英国なんか
流石に『ジヤップ』と米国式に罵倒された事は無いが似た
ような別称で呼びつけられたり、命令された事は就労先で
多々あった。

サル−ンとパブリックと、一つの飲み屋に、二つの出入り口。
「差別と蔑視」が公然と存在している国だから。
クライミング用のチョ−ク・パウダ−を使い始めたのは
帰国後からだった。
デイッセンダ−(下降器具)さえ購入する
金銭的な余裕が無く。
クライミング旅行の途中の食事も、無料で
貰えた、冷えたポテトフライや黴の生えかけたパンで我慢。

2006/04/03 (月) 8:13:55

1974年
1973年
次に再訪する機会が得られたら、冬季の「ベンネビス」氷雪のル−トを楽しんでみたいと考えている

俗にスコトランド・タイプと呼ばれる、ガリ−・アイスのクライミングや、今や日本では、伝説並みの
古風なクライミングを満喫するには、スコットランド・ハイランド地方は格好の場所だから。

岬に伸びる小経路の、谷奥の小屋は今は壊されたと聞いた。
最近では『ベンネビス』の山頂に立つ、日本人・登山者も珍しくは無くなった。

ハリソン・ロックのクライミングをロンドン辺りから、B&Bに泊まりながら気楽に周囲の田舎町と共に観光客の様に、楽しむのも良さそうだ。
MCS国際・山岳プロガイド 舟橋 健
ボニントンも若き日に、この岩場で自分の将来を悩みながらクライミングに明け暮れていたと言う。
ピトンやボルトの痕跡さえも、見ることは無くて、ピトン・スカ−の名残も殆ど発見できない。こんなロック・ゲレンデが存在している事も、驚きの一つだったが日本では、まず考えられない保全環境だ。しかも、金属製のチヨックも使わなければ、フレンズ等の使用者も見る機会は無かった。
高粘着・機能ラバ−のクライミング・シュ−ズを流行に合わせては、買い替え、チョ−クにクラッシュパッド、使える手段は情報も含めて、何でも手当たり次第と言う現在の環境を見ると、体験出来た歴史の中でのクライミングの質の高さは驚くべき、私にとっての財産なのかも知れない。
北海道や島での、キャンプ地で強い風の中で記憶が甦る時に、この風景と風を想い出す。『風』の中での荒涼とした風景の中で、寂しさや空腹感、それらの想い出が実は本当に自由だった記憶だ。