【南仏 カランク・憧れの欧州アルプスでのクライミングから、地中海のシ−クリフ】

ガストン・レビュファ−の【百選】は、日本人クライマ−には一時期『モンプラン山群』の資料としては、唯一・バイブル的な評価が与えられていて。続編の『ゼクラン山群』と、共に有名ですが・原書・版シリ−ズの方には『地中海・カランク』を詳しく、紹介した【百選】も、あります。こちらの方は、翻訳本が出版されなかったので、日本人には殆ど、馴染みも・知名度も、ありませんが。
レビュファ−に関しては、山岳映画の供給・放映が、極端に少ない、と・・・・私は感じる。

日本では、素晴らしい【映像・作品】G・レビュファ−主演の三部作・映画は著作・以上に、私達の世代には刺激的・かつ影響力を持った、数少ない作品です。現在でも、映画がビデオ化されて販売されているので、見た方も多いと思います。その映像・作品の中に、南フランス・マルセイユ・近くの「海岸岩壁」が、延々と地中海の海に沿って連なる「カランク」での、いかにも南仏・地中海の光り輝く、明るい海から浮き出ている様な「白い岩肌」が、正に眩しい。シ−クリフ『カランク』での、開放的で快適・楽しそうなクライミングが、出て来ます。

『三大・北壁・詣で』と、称された時期から、欧州アルプスに、向った多くの日本人クライマ−・アルピニスト達の話題の中にも、よく・この地中海の明るく、開放的な「特別な岩場」の噂は出て来ます。

そういった「噂話」には、頻繁に出て来た「カランクの岩場」を、実際に見て・触れて来た(登った)実際のクライミングを楽しんだ・クライマ−は、話題の多さに比例して、意外に少なく。時代が【北壁】方向や、氷河の山々に向いている間は、現地でも南仏『カランク』方面、モンブラン山群から、南に離れた地域への転進は、余程の・夏のシ−ズンが悪天候・続きか。懐具合に余裕のある、「北壁・組」敗退者?にしか、見向きはされなかったようです。
南仏に移動と、聞けば・それは一種の「逃げ」と、廻りから見られかねないクライミング対象で。

今の様には、気楽に『リゾ−ト・クライミング』等とは、口走れない雰囲気の、『クライミング社会?』でしたから。私が、他のクライマ−達とは全く異なる方向・経由で渡欧した1974年には、間違っても同じ・日本人クライマ−に『カランク』の話題は、ある種の禁句・領域でした。逆に私が、ド−バ−を渡る前日の仲間達は、ある種・羨望と憧れの眼差しを、私に向けておりました。あの暗い気候と霧の街から・南仏にも立ち寄ると、言った瞬間から彼らの顔色は変ります。同じ、島国クライマ−でも、このリアクションの違いの大きさは・とても面白い。

当時は、装備も乏しく。コッフエル一つを購入出来ずに、
拾った、空き缶が装備の一つ。そんな貧乏旅行の最中での
クライミングでしたが、それでも、山の街で出会った、私より
はるかに裕福そうな日本人クライマ−達には、高山で吹雪
かれ、凍った壁からキャンプ場に帰着して、惨めな雨漏り
キャンプ生活の中で、『光り輝く・カランク』は、憧れの地で
した。カフェに入り、贅沢にカフェオ−レを飲めない、連中と
話題にするのは、暖かい地中海の、白砂の海岸で美女達
が当時の噂「ヌ−ディス・ビ−チ」・・・噂・らしいと思っていた

日光浴の合間に、、気が向けば、真っ白な石灰岩の岩場に
、地中海の海を背後に、ザイル(ロ−プ)を伸ばす。なんて
「レビュファ−・スタイル」を、夢見ていた頃でした。

当時は、まだ岩場・クライミングが多くのクライマ−の意識として「本番」と「ゲレンデ」この、二つの区分・領域に分けられ『クライミング』ジャンルが、細分化・方向に向っていなかった、分けられる余裕をクライマ−の多くが、持てない時代で。関西圏では『ライム・スト−ン=石灰岩』の岩場は、遠く・夜行列車に揺られて「本番」に向った【明星山】ぐらいしか、知らなかった頃でした。その、【明星山】には、当時の「扇動的・先導的?教科書」なシリ−ズ・ガイド本に、G・ボエムの「佐内氏」が、次ぎの課題を強烈・示唆的にアジティ−トされていて。当然ながら、遅れて来た『世代と言われた』=(本人は、とんと思っていなかったが)私達はこれは、早い者勝ち勝負だと・勝手に思い込んで、追い立てられる気分で、夜行列車に飛び乗ったのでした。

初見の【南壁】を夜行列車で徹夜で会話を楽しんだ疲れも、ものとも・せず快適・快調に突破して。
南壁・ピ−ク直下の緩傾斜・部の窪みで夜露に濡れたゴロ寝・スタイルのビバ−クに耐えて。翌朝は正真正銘・未知の壁へ、記録も写真の情報も、手に入らなかった・迷路の様な壁に下降を開始して、ル−トを開拓。更にトラバ−ス。振り子ピッチが、どこなのかも判らないまま・意外な特殊・形状のホ−ルドに頼ってフリ−クライミングは快調。二つ目のピ−クに立ち上がった時には、当時・他のクライマ−達も必ず、読んでいるだろう【課題の提示】を、自分達が最初に解決した。そんな・不遜な自負心・自己満足に、浸っていました。

山頂からの、クライミングを終えての一般・登山道で、高校2年の頃に一緒に槍ヶ岳・北鎌尾根に5月の想い出として・強烈だった山行を共にしてくれた二人に、偶然に出会って少しばかり、誇らしく・優越感を味わいました。

その後も、この国内では当時・珍しかった『石灰岩・クライミング』の山には、関西から通い込みました。高校3年の夏から本物の「山」で、始め出した一人でのクライミングの、続きは黒部から・剣へ。そして、この「石灰岩・岩壁」へと、休む事無く・終わりを感じる事無く。長く続けました。『涸沢時代』には、この頃の経験が故・長谷川氏とのクライミング談義での、大きな共通・話題として、最初の出会いを幾分、和らげても・くれたのかも知れません。

『情報』を使わないのは無駄
だと、考えていた。
片っ端から・・・とは、当時の
私達を指す・表現。
 
『関西・西風』を目指して
精力的では、あった。

1972年の「秋」には、日数的にもクライミングの内容的にも自己満足に浸れる
シ−ズンを明星山・周辺で過ごせた。空腹とカラビナ・ピトンの数の不足も
痛んだロ−プでの、危険も我慢できた。

『フランケ』は、誰かに言わせると『日本・三大・脆い岩場』だとか・・・
私には、それ程とは思えないが。感覚と言うものは・世代にも・体験した岩場
や、愛着や・当時の意識にも・大きく左右されるものだろう。

故・長谷川さんが、若き日に「開拓・初登」したル−トも、当時は何も知らずに
再登していた。その後、その話題は涸沢の我家?大型・天幕の中での酒席で
良い、話しの種となった。

『ライム・スト−ン・石灰岩』岩壁での、クライミングを見た時。
国内では、最も初期から『明星山』で積極・果敢に新しい視線でル−トを
拓いていた、長谷川さんは・やはり時代の先端を進んでいた、クライマ−だった
と、思い返される。

故・長谷川さん、からは数年に渡り。奥様・同伴の来訪も含めて、『三顧の礼』に、近い御好意を受けたのに、最後まで【ガイド協会】への加盟・加入を断り・続けてしまった。

被災後は、私の「活動」への、奥様からの支援も多大に受けた。パキスタンにての児童・支援に僅かながらの協力は行ったが・・・いつか、現地の墓碑に、酒でも持って訪ねたいと思っている。ガイド業の今とかを、ボヤキに・・・・

【明星山・通い】で、得た本物の石灰岩(ライム・スト−ン)クライミングでの、複雑系のクライミング体験に、完璧に引き込まれてしまった私は、神戸に帰るごとに・どこを見渡しても、行ける場所には「花崗岩」ばかり。登攀・倶楽部の仲間達は『堡塁岩』に、代表される少しでも・クラック・節理のある「花崗岩・岩場」にしか興味を示してくれず。少々、意欲が萎え出したので、再び・今度は、単独での【明星山】通いの・夜行列車の費用・捻出に苦労し出し、何とか・その年の秋には。やっと「国内」の、北方向への、列車に乗っては・良く通った。その年の冬には・生まれて、初めての『海外』へ。
一人・飛行機に乗ってしまいました。ナホトカ・ハバロフスク・シベリア鉄道と・それらの情報ばかりを収集・意識化から夢の中まで、思い続けて、働き・考えていた『6年間』が、翼に乗って、伊丹空港を飛び立った・瞬間に、あまりにも遠い日々・過去の様に感じたのを、今でも、しっかりと覚えています。
「サンド・スト−ン」に「グリット」「スレ−ト」と、奇奇怪怪・面白い岩質に風景。フイッシュ&チップスにビネガ−(酢)を、たっぷりと振りかけて・食べる、変った国です。屋根裏部屋から、徐々に、地下の部屋へと格下げ・居住しながら。起き出しての、毎日の皿洗いとベッド・メ−キングや掃除に、ペ−コン・エッグや、たった一杯のビ−ルを飲むのにさえ『入口・場が違う』と、視線と態度で追い返される。そんな・差別的な人間たちが、ネクタイ締めて・平気で闊歩する「社会・環境」が、何故だか残っている「場所」にも、正直・飽き飽きして。

再び。パックを背負い「親指を立て」北を目指しました。北の辺境地は、あの独特の広漠・風景に北極海からの「風」が、体質に合致したのか?人を裏切る方法を知らない・忠実な友人・仲間達の「ワンコ」との生活に心も・同化してしまったのか?他では・見ない・聞かれない。あの「高地・精神」ハィランド・ホスピタリティ−に共鳴・信心?して・しまったのか。南に帰る、日時や時間の感覚も、すっかり忘れて。自分自身が、、将来の指針や方向性も定まらずに、人生を『迷っている最中』だと、言うのに、ヒ−スが咲き・延々と連なる丘陵の中。どんよりと・いつも曇った空の下で、文字通り。丘の窪みや、谷間で「迷う・子羊・達」の面倒を見ていた。ある種の、これはジョ−クの世界でした。ゲ−ル語ならぬ、かなり怪しくなって来ていた『関西弁』でも、話しが通じる、仲間の『ワンコ達』に、いっぱい囲まれて、寒さも・暑さも、ひもじさ・喉の渇き、さえも共有して。幸せな生活を過ごしてしまいました。

別れの日には、チ−ム・リ−ダ−で就寝中は毎晩小屋の中で、私の顔元で一緒に寝ていた相棒が南に続く、この道を、バスを追って、数Km・走り追いかけて後ろを・振り向き・泣いてしまった・・・・・

お世話になった、老夫婦も亡くなられた・・・・・
ワンコ達の、後継・達も北の地に散らばっているだろう

今でも。もし・生まれ変わって(ないけど)適うならば。こんな土地で『羊飼い』を、天職として暮らしてみたいものだ・そう思う。数年前に、お茶の間の「愛犬家」を騒がせ・心配させて。日本中で反響が大きかったと言われて、未だに話題にも、取り上げられる、あの「世界・仰天ニュ−ス=TV番組」でも、再現映像に出演してしまった。『がけぶち犬・救出』あの、壁で途方にくれて、死にかけていたワンコを救出・救助を行ったのは、私としては当たり前の行動です。日本の普通の愛犬家と、呼ばれる犬好き・の人達とは、私は少しばかり感覚が異なり、仲間を見捨てては「男が・すたる?」しかも、ガイドでクライマ−現役ならば、当たり前の行動。奈良県・柏原市に呼ばれた、その後の動物愛護・関係からの表彰式・恥かしくて出ませんでした。

北の辺境地で暮らし。翌年の夏に、海峡を渡り。毎日、親指1本の「旅」を続けて、ようやく再び「グリッド」でも「サンド・スト−ン」でも、ない。濃霧と霧雨の丘陵・世界から、頭を引き上げて、見上げられる本物の「山」の麓に辿り着き。靴紐だけを買い足して、ヘルマン・ブル−やカシンを見習い。食料袋を二つばかり、足して、挑戦したのが「ツ−ク・シュピッエ」太陽が、明るく白い岩肌を温めてくれる

素晴らしい「山の世界」での、実に1年ぶりの石灰岩・岩壁での快適に高度が高まるクライミングでした。小さな、パックに履いて来たクライミング・シュ−ズを仕舞い込めば、一般・登山者よりも、観光客に近いスタイルで帰路を駆け下り。橋下のシュラフも無い、夜にも苦労も感じず。岩場の幾つかを巡ってから、物価の高い・『山の街』へ。憧れの氷河を見て、興奮したものです。

憧れて入山した『山の街』には、シ−ズンも、終了、近くの季節に辿り着いて、物価の高さに、追い返されて。更に財布に厳しい「スイス」では、冬山・冬季装備を持たずに、立向かえない『常識』は、重々承知。それでも、若い時は・やはり「馬鹿・無謀」な・・・事を。運良く・壁からの敗退でも・下界からの監視を吹雪で隠されて、レスキュ−の世話にもならず。自力・下降、が゜可能だったのは、単なる『運の強さ』の、なせる幸運だったのでしょう。運良く、他のクライマ−達の視線からも、隠れながら、登山電車の軌道を下り。更に深夜も、歩き通して『街から』降りる間・中、悔しさで、一度も、後ろを振り返らなかった。

この『山域』には、意外と早く再訪する機会が゛得られた
高校時代に、、読む力も無いのに年間・購読していた独語圏の『クライミング雑誌』を、見ていたので、何か親しみを感じていたのも、幸いしたようだ。

フイルムを購入する、余裕も無かった。その後、数少ない残していたネガ類も被災後の混乱期に・運悪く傷付けてしまった。ネガその物も、今となっては復元不可能な物もある中で、少しばかり高額でも修復が可能な物は、少しづつ手を加えている。壁が壊れて・窓のガラスも地震の揺れで、破損して室内に入った雨風を、少しばかり長時間・放置、し過ぎてしまった。当時は、余裕が出るまで・・・・写真の事等・気にも・していなかったから。

そして。、再び。今度は、少しばかり大人に成長してから(?)
挑戦対象は『大きな山の壁』最初の渡欧から、、当時の日本国内には、誰一人・・範とすべき先輩も、堂業種の見本とて存在していなかったが、アルパィン・ガイドには自分の能力が、まだ充分に足りないと自覚していたので、英国・独で体験・修業の機会を探して路を切り開き・かけていた。今風ならば「アウト・フイッタ−」当時は、インストラクタ−の一つ上を自認した「コ−チ」=国内初のクライミング・インストラクタ−から、自活・活動を開始していたので、海外での業務・実務経験も障害者からの、依頼や相談も、含めて実績を積み始めていた。
ガイド・ライセンスの日本での、認可・基準が始まる10年・以上も前から、欧州アルプスでの本格的なガイドも行えていた。最近の、定年前に趣味の「山から転進」ガイド業へ・とは私は違う。叩き上げの職人系を、一つの見本・段階を職業として積み上げて、イントラから、プロのコ−チへ。そして、山岳ガイド業務から・、認可基準が出来る以前から・、実際のクライミングと山行での実務経験。そして国際ガイド・ライセンスの習得と、自分で『夢見』目標を設定した方向に、誰はばかる事無く・真剣に、歩んで来た。

本物・同業者、プロのガイドや、自分自身の「職業」や、共に助け合わなければ、ならない者への『敬意』や『尊敬』を持たない、輩を、私は信用しない。

パ−トナ−は、穂高に通い出してから懇意にしていた・桑原ガイドから面倒を見てくれと、数年前に穂高『岳沢』で紹介されて、ずっと個人的にクライミングから、生活面でも
交友を続けて来て、技術面は全て私が教え込んだ。当時としては、望みえる、最高レベルの若手クライマ−。日本人・記録、未見。まず、何よりも情報も知れ渡り、発見の喜びさえも低下する様な訳文・入手が可能な知られている『壁』や、誰かの話題に、上がるような壁には興味を抱かなかった。夏期の「北壁」にも、別段・興味も無かったし。キャンプ場の日本人・村?化した「場」には、近寄らない主義だし。そういった場での、評価にも一切・左右されない基準も持ち合わせていた頃なので、

日本人クライマ−の、情報とは違った現地クライマ−達や
自分のクライミングに求める、評価を教えてくれたガイド達
の意見を参考にした。同じ様に、現地で入手した最新「情報」
や「資料」は最大の刺激・選択の為の指針とした。

そして、個人的な嗜好・趣味の領域の価値基準のひとつ。
見た目で、一目惚れ、できる「山の壁」が、膨大なリストの
中から、限られた期間で選ぶル−トの選択方法。

ついでに、「名前」が、好きならば・・・・更に良し。それらの
意外と、単純な基準も加味して、選んで、狙った・ル−トは、

面白い様に・次々と手に入れられた頃です。3人で向って、一人が途中で脱落。壁へは二人で向かうと言うパタ−ンも続く中で、相棒は若さもあって力強かった。何より、ル−トの選択を、全て私の個人的な趣味・我侭に任せてくれていたので、行きたい・登りたい「壁」に、全力・集中が可能だった事は最大限のモチベ−ションを発揮する条件を満たしてくれていた。単独でのクライミングに、つぐ集中力をも発揮出来。これは中々、体験できない良い精神的な好条件でのクライミングを続ける条件でも、あった。

「日本人・初登」に、特別な思い入れや・自己満足を覚える・世代ではなかったが。幾分は、そういった名誉欲・それに類する感情は、完登・後に街に降りてから、地元のクライマ−や小屋・関係者からの一言・祝いの言葉を聞くと。多少は・気分は良かった。そういった体験を持つ、機会を得られない、有名ル−ト詣でのクライマ−達には、通じない・関係の無い、。楽しみ方を満喫していた。

現地で購入した最新・版ガイド・・ブックや、当時から興味を強く惹き付けられる、現地での最も注目されている「情報」が、斬新な写真やレイアウトで紹介されている「バ−チカル」その他、パラ・パントやキャニオニンク゛にハイト゜ロ・スピ゛−ド。レ−ス関係に自転車や過激なカヤック・フランス人やイタリア人の、遊びの・センスとライフ・スタイル。要するに、遊び、遊び方の多方面・細分化の世界には、写真を見ているだけで付いていくのが大変だ。

この、頃には「ライム・スト−ン=石灰岩」での、フリ−・クライミングは、世界的に見ても・主流に、なりつつあった。

現地(フランス)では、ビュ−クスやベルドンの話題も、情報も多く。一時期の・同じ「山の街」ばかりに、集まる様な風潮も、若手の一部のクライマ−達が、より少人数で・自由に各地を移動してクライミングを楽しむようになって、少しばかり・良い変化に私には見て取れたが、ベルドン渓谷の「壁」には、スケ−ル的には、興味を惹かれたが。

まだ、この時期「1983年」と『1986年」には、私には、登りたい「山の壁」が数多く、残り過ぎていたのと。空への『夢』が、この時の・渡欧でパラ・パントとの出合いで適ったので、次ぎの機会まで、延ばした。

そして。あの『憧れ』の、南仏のカランク・白い海の壁へ。

その前に・・・・・・『モンブランの麓と、空間に広がる、空間の世界へ飛翔』する。得がたいチャンスを手に入れて

しかし、スカイ・スポ−ツ界から、見ても日本・国内への本格・参入。が1年・前だった1986年・当時のパラ・パント(パラ・・グライダ−と、後に日本国内では呼ばれる)この、新しいジャンルの遊びを、運良く本場・フランスで習い覚えたのは、個人的には素晴らしい体験だったが。同行・引き連れて来ていた、一人の若者(当時・山岳同志会に所属)この、彼も桑原さんから・預かった様な、新進・気鋭の有望クライマ−の一人だったが、数多くの現場での、山行・クライミングで、身体能力・高度に関する弱さで、何度も途中から脱落・気味だったフラスト・レ−ションから、精神的に、あまり我々とのコミュニ・ケ−ションが、うまく取れなくなっていて。その、彼が無謀・明らかに無茶なパラ体験で、自身の過ちから引き起こした『事故』で、負傷。交友・関係が壊れてはいたし、本人の責任での負傷・事故だったが、見知らぬ海外。彼にとっては初の海外クライミングの機会でもあった。一緒に出国した、仲でもあり。辛い・状況も予測できたので、結局は、彼のシャモニ−での長い、入院期間は彼の面倒を見る為に、全て費やされて。後半の日程も費用も無駄にしてしまった。楽しみに、予定していたシ−ズン終了期間の『南仏」での、休日も適わず。観光を少しばかりで・・・・英国・スコットランド(私が・強く薦めた)に、渡る若い・仲間とスイスで別れ。私達は帰国した。

フランスでの、フラストレ−ション・鬱積したような気持ちを・帰国後。クライミングだけでは、解消できず。
考えうる「場所」には、全ての機会を利用して、持ち帰った「パラ」を持参して、今ならば、完全に「無断・許可、飛行」とでも、呼べるような。かなり危ない『飛行・体験』を各地で行った。穂高に持ち上げて、飛び出したのは・言うまでもない事だ。タッタ、3ケ月の私としては、極端に短い欧州クライミング(仕事抜きのプライベ-ト)でしたが、本場での飛行と言う。当時としては、最新・最先端の体験と技術と情報を、手に入れての帰国は、少しばかり無理をして購入して来た『自分の翼』と、共に価値の高い収穫でした。
そして。時代は関西範囲にも「ライム・スト−ン=石灰岩」での、フリ−・クライミングに移り変わり出し。
今度は、車に乗って「明星山」へ。他の・多くのクライマ−達は、山から離れた、今風の手頃なアプロ−チと規模の『壁』に、集中していて。関西範囲でも、以前に私が情報・公開・発見、開拓の端を開いた形で広まった『南紀の白崎・海岸』を最初として、各地で石灰岩のクライミング・エリアが広がり始めていた。その、結果・以前ならば一風・変った岩場が「普通の・クライミングの場」へと、変化し出し。クライミングもクラックから、垂直を超えた「傾斜のフェ−ス」へと移行していった時期でしょう。

海外での「ガイド業務」も、順調な頃から。私自身には直接は
現地・地元のガイド達や協会・関係者から、苦情や指摘を受
けた経験は、なかったが。逆に日本国内では「プロ・ガイド」
基準。海外、特にスイス・フランス国内での、日本人ガイドの

活動・業務に強い・批判が寄せられていた。
その辺りの「事情」に、関して。も・早くから資格・認定や基準で
の世界・基準や欧州と日本での「ガイド組織」関係を真面目に
考えていたのは、ほんの数人。

問題視されていた、某ガイド氏とは、個人的に長い付き合いも
あったが、当時から。穂高・周辺でのガィデング・スタイルには私
も、疑問は持っていた。
1990年までの、マッタ−・ホルン「ヘルンリ・ル−ト」での私の
ガイドも、回を重ねるごとに日本人ガイドイドとして。地元スイス
のガイドの何人から、問題を直に・指摘され出した。

現在も、私から見てだが。他の職域・職業とは異なる
プロ・ガイドとしての、基準を順守すべきだと、見られる日本人は
いるようだ。

単純な『利益・単価?・計算』のみで、プランを進行。
ガイドを続けるならば、・・・・かなり、危ない。

【追憶・記憶の中の白崎・・・日本版カランクから、本場・地中海のカランクへ】

今は、登れない・使えない「岩場」

『ライム・スト−ン・クライミング』には、一種・独特の雰囲気と味わいがあり。節理の、はっきりとした『花崗岩』タイプの岩場で、一般的に体験出来るクライミングとは異質で、より多彩で多様な・技術を駆使した『フリ−・クライミング』が、体験出来る事を、私は・自分・自身の体験から知っていたので「明星山」や、海外で覚えた感覚・感触を思い返しては、私の住む「関西・範囲」での、エリアやル−トを、かなり前から求めていた。

【南紀・白崎に関するクライミング・雑誌への投稿・・情報】CLIMBING JOURNAL1986・1(21号)

(現在も、クライミング禁止・区域に指定されていて。半島部・全域でのクライミングは楽しめない)

今で、こそ『石灰岩』の岩場での、フリ−・クライミングは普通の事。ただ、私には、今風?この遊び方で、使っている「エリア」で、触れる『石灰岩』と、本物の【大きな山の壁】で、複雑な浸食地形・岩壁・条件を工夫して、花崗岩とは別種の、歪な・複雑さ、そのものが楽しい「壁の中」で、持てる技術と経験を駆使して、チヨックを押し込んだり。浸食アレ−トや、隠された穴やポケット・ホ−ルにスリングを通しての・支点確保。そういった、発見性が楽しく。整列した、ハンガ−・ボルトを見上げて、スリングやチヨックに、使う為の「頭」も不要な、クライミングは、少しばかり、趣味の範疇とは違う。だいいち、クライミングの冒険性が、全て失われた環境に興味は湧かない。創造性と想像性が消えた、消された【エリア】ばかりが、支持される「環境」にも、少しばかり身の置き所が無い。

日本の「シ−・クリフ」と、呼ばれ。南仏カランクを連想・想像させる岩場の発見。初めて、見た「白い半島」は、新鮮な驚きと、いつもの開拓・特有の精神的な、高揚感で幸せを、充分に噛みしめました。

殆ど、手付かず・・・・・・勇気のある?釣り人、以外には海鳥が、乱舞するのみ。青い海と空に、挟まれた
『憧れの白い岩場』ライム・スト−ン・クライミングの「場」を、手に入れたと感じた幸運でしょう。

偵察後の、最初のトライに付き合ってくれた相棒はチェコから、英国に親が亡命して。本人は日本に在住のアランでした。彼とは、この頃にはアイス・クライミング講習との交換で、岩下の海や、他のエリアで「海」の遊び・スキュ−バ−・ダイビングを楽しませて貰っていました。彼には「白い岩」は、特別、珍しくは無かったようでした。

『CLIMBING JOURNAL 1986年・21号』に、この最初の開拓・時のクライミングを記録として投稿。
日本のシ−クリフ・カランクとして、かなり、大きな反響が、あったと言われています。
後に、アランも『岳人』に・感想と記録を、面白く書いて公表していました。そして、記録を出してからも、私達には、しばらくの時間を楽しい「開拓・初期』特有の有意義な、時間を楽しめました。

この、快適・環境の『海岸・岩壁、白崎』が、開発され出して、最終的には『クライミング禁止』になる、、少し前に私は幸運にも以前から、考えて。狙っていた「計画を仲間達を引き連れて、完成させる事が出来た。

  

【白崎・半島、横断?クライミング】

思いっきり・楽しい『楽しめる』内容だったので
何時もの様に、『記録』は、公表しなかった。


当時は、この素晴らしい石灰岩の岩場が、
登攀禁止になり。気楽に、遊びに、来れなくなる
等とは・考えも・していなかった。

この【岩場】を、楽しみに神戸から南紀、方面に出る様になってから

『沢・関係』の遊べる、新しいエリアと共にカヤックでの、川旅・コ−スの自分なりのレパ−トリ−も、随分と増えた。

沢と川面から、見上げる新しい
『岩場』に加えて、他のクライマ−が・見る事の出来ない『方向から・見た岩場』の、情報も加えると・無闇に車道や藪山の中を探査していた時間よりも、水面から発見した「岩場」は、面白い課題を後々まで、私達に提供してくれた。

時代は・完全にクラックから・石灰岩での
露出度の高いフェ−ス・クライミングへとブ−ムは
移行していき・・・・

『川面から、再発見・見る岩場や。コ−スト・ツ−リングで・海上から発見する、岩場にも面白いものがある』

南紀』以外だと、福井県
海岸の、岩場にも発見
記録、以降は開拓した、
大阪の知り合いクライマ−
よりも数多く、通った。

しかし。ここも、白崎海岸と
同じく・現在では登攀・自粛・

禁止と、環境は変化している。

この『日本海・側』の、岩場としては当時でも・貴重で特異な『柱状節理』の、岩場がクラック系の練習には、最適な環境を持ち。チヨック類で、全ての既存ラインを登れて、開拓に加わってからも・まず支点に、ピトンの使用は不要。ボルトを打たなければ、登れない「ライン」は、見えていても実際には・手を出さなかった。
たった。十数年で壁に残された『ハンガ−・ボルト類』が、主な原因で地元・観光と摩擦が生じるとは。

本場?『カランク』を、実際に体験するまでには、随分と、思い描いていた
『時間』が経過した。
海外での、本格的な大きな石灰岩・岩壁を登っても。国内で、再び再生・再評価され出した『明星山・南壁』に、最新のフリ−・ル−トを、登りに通っても
北アルプス・南アルプスでの、自分なりの開拓クライミングを継続していても、モット違ったタイプの、遊べる『石灰岩・シ−クリフ』カランクへの、憧れは・心に残り。手を、触れたいとの気持ちは・忘れていなかった。

震災後の最初の、海外クライミング・ガイドに予定していた『プラン』の中にも、当然ディボナ針峰と『南仏カランク』での、クライミングは組み込んであった。

その『プラン』を実施する一月・前には私は前年から続けていた「北海道」での、バリア・フリ−企画での、大雪トムラウシ周辺での、事前・準備に通常の数倍の労力が必要な『企画』実施と、自分の震災後からの・フラストレ−ション払拭の、遊び・で道東に滞在していたが、欧州プランの方の・予約者、夫婦から急なキャンセルが入って。
この、夏のシ−ズンも『カランク訪問は延期』これは、かなり痛かったので。その夏・期間は神戸には帰らず、穂高にも入山せずに、北海道『道東・範囲』で、後半戦は全て遊んだ。。
その時間の、余裕で普段ならば、中々・通えないカヤック・コ−スの目ぼしいツア−も体験。隠れた「露天・野・湯」関係では、かなりマニアックな場所なども来訪出来た。

そして・念願の『本物のカランク』との、対面は。1999年・ガイド業務は一切・抜きの完全な『プライベ−ト・ツア−』として、遊べる時間は当初は半年程度は予定していた。

幸いな事に?そこまで気楽に長期間・海外で遊ばしてくれる「講習生」ばかり、では無く。
ちゃんと、遊んだ後には・帰国して働ける・環境は残してくれていたので、期間は短縮された

80年代に数度・来訪して様々な理由や、原因で完登を逃していた数本のピオラのル−トや、活動・範囲としては仕事では、中々に短い・夏のシ−ズンで訪れる事が難しかった山域や情報と知識だけは、随分と前から、知ってはいたが、実際のクライミングは体験していなかった『エリア』にも、足を向けれる・時間の余裕を、今回は用意して・出発。

数年前に、来訪出来なかった。スイスのヨセミテと呼ばれる『グリムゼル渓谷』と・前回のガイド・プランでクライアントにも、ぜひに・と勧めていた『ディボナ針峰』の二つの岩場は。どうしても削れない。モンブラン山群の方は、このエリア・そのもの欧州圏でのクライミングその、ものが初体験の相棒に、合わせてコスミック・アレ−トやボソン氷河・その他・シャモニ−範囲からのクラシックを、私自身は懐かしく感じながら再訪して楽しんだ。モンブラン登頂や、その他・ポピュラ−な山行には興味を示さない、仲間のお陰で・私にはシャモニ−での夏の、滞在期間を今までに体験したことの無い・余裕で過ごせた。何しろ、レンタル・バイクに乗って周辺の渓流に、釣りに出掛けたほどだから。そういった、余裕の夏のシ−ズンの、中で以前に、連れて行った若い仲間達の技量・経験、不足で途中・敗退した壁や、情報を集めていた『ル−ト』を、今回は恵まれたコンディションで、楽しく完登。
用具も、各段に進歩しているし。当たり前なのだが、再訪・完登と言う、機会は中々に楽しかった。

グリムゼル渓谷の中でも、最深部とでも呼べる『エルドラド』の
大岩壁は、殆ど日本人クライマ−から興味を持たれない、岩場
そして。ディボナ針峰も、最近まで名前も、あまり知られていな
かった・特徴的な岩峰。ピオラの最新ル−トも、本人が開拓中
の、その姿を直に見れたのは幸運。収穫は、大きかった。

一路。南仏・プロバァンスへ。ビュ−クスに、ベルドン。途中の道中には、寄り道しながら・ブリアンソンの登攀意欲を、強く刺激するクライミング・フェスタの屋外・クライミング・タワ−で遊んだり。石灰岩のボルダ−にも、手を触れて。更に南へ『ライム・スト−ン』の世界です。そして、アフリカを・アラブの風を、街中でさえ感じるような・混沌とした「マルセイ−ユ」に、立ち寄って。街をウロウロ・やはり、食にも南を感じる。懐かしい「『タジン』を、横目に、カランクへ。地中海の港町を、夕景が染め出す湾岸路を抜け出せば。そこは、コ−ト・ダジュ−ルに続く、カランク内陸部の、海・近くとは思えない、幾分・荒涼とした風景が続く、丘陵地帯。カランクは近かった。

ベ−スを置いた「キャンプ地」は、南仏らしくシ−ズン後半の山の町のクライマ−の姿が消えた、あの閑散とした、雰囲気とは全く逆の・いかにもリゾ−ト地と、いった雰囲気で。明るくて、設備面も充実。少しばかり、高台のオ−ト・キャンプ場なので、海岸の目抜き通りや賑やかな街並みからは、遠いが。静かに休養するには最適な環境だった。

最初に、地形や・情報で調べておいた目的の岩場のある『入り江』に、入る箇所で少しばかり、無駄に歩いたが。結果としては、その歩いたアプロ−チで、偶然・得がたい発見。『レビュファ−の記念プレ−ト』カランクの入り江を、代表する美しい場所へ続く、小さな谷の、小道に『プレ−ト』は設置されていた。

若い、フリ−クライミングにしか興味も無ければ、グレ−ド的には同じ『カラング』の名称でも、アルピニズムに関わる、古いタイプの入り江の・岩場ヤ、レビュファ−の、記憶は関係ないと思うが。最新の「カランクの岩場」にも、興味はあり。かつ、古典的な場所や、地名にも同じ様に興味もあれば、想い入れ・も、ある私には遊べる範囲も、好奇心を満たす空間も実は、広い。

高校生の頃に、写真で初めて知った「カランク」の、岩の白さはやはり。格別だった・地中海・特有の明るさは日本には無い種類の特別に感じる、空と海から受ける光線とのコントラストで光っている気になるから、不思議だ。

『カランクでのクライミング』は、他の欧州圏での新しいフリ−・クライミング・エリアとは趣が異なる。
カランクの石灰岩(ライム・スト−ン)クライミングの範囲は広くて、。開拓されるだろうエリアは、広範囲なのでマルセイ−ユ東端の現代的なエリアが、更に拡大されていくのは疑う余地は無い。

同じ『カランク』の地名の中にも、幾つもの・違った歴史と開拓の
経緯や、目的で拡大していくエリアが存在。

地中海の海と空の青さ。

同じ様なクライミング環境を、日本国内に求めるのは・少しばかり無理。雰囲気が、とても似通っていた。
あの南紀の白崎海岸が、今現在はクライミングの対象として使えないのが惜しまれる。

『カランク』滞在中は、日本に帰国したら絶対に体験・遊べないジャンルの、海岸岩壁の特性を最大限に利用した『ビア・フェラ−タ』も、しっかりと事前に研究しておいたので、特選コ−スとでも、呼べるカランクならではのフェラ−タも満喫。山岳・地帯で楽しんだ古典的なコ−ス内容に、面白さを感じた『ドロミテ』とも、最も近年に開拓されたフランスのスポ−ツ・フェラ−タとも、やはり海を眼下のコ−スは、一味・違っていた。

クライミングの合間に、缶ビ−ルと、わざわざ日本から持参して来た。ルア−・ロッドをシ−・カヤックのデッキに、括り付けて・地中海の波間に漕ぎ出した。これも、憧れていた遊び。クライミングだけでは、この『カランク』を知るには方法が足りない。相棒は、ヌ−ディスが日光浴を楽しむ、砂浜でも何故か?長ズボンにTシヤッツ姿。私は当然だが上半身は服を着る気はしない。少しでも、快適そうな場所を見つけては海に飛び込んでいるのに、泳ぎもしない。他人事だが、少しばかり勿体無い。

日本の典型的な『コ−スト・ツ−リング』とはやはり・内容が違う。

一端。港を出ると着岸は絶対に不可能な石灰岩の巨大な壁が延々と広がり、続く。
漁船やプレジャ−・ボ−トの類は殆ど、操行していないのでツア−中の、岩壁帯・通過時に荒波に襲われると、これは・かなり本気に恐いだろう

『クライミング』と『シ−・カヤック』が、これ程に違和感無く・共存?

同じ場所で、楽しめるエリアも珍しい。
少し、日程に余裕があれば。積載量の大きな艇で地中海沿いに
クライミング・ツ−リングを楽しんでみたい。

ヌ−ディスト・ビ−チを横目で、楽しみながら。豪華クル−ザ−も
停泊している、美しい入り江に幾つも立ち寄りながら。

クライミングも、だが。遊びには充分な経験を積んで来たから。気楽に、海外に出ても・海でも、山でも遊べているシ−カヤックも、好みや希望・通りにとは、いかないまでも現地・到着後にキャンプ場で、辞書を片手に何時もの様に、電話帳を調べてレンタル会社を探して、遊びに出た。

ライム・スト−ン・クライミング
『適わない夢想・現実化しない夢』も、到達できない目標も数多くあって当たり前。『適った夢』の次には・・・・もう、一度。ジブラルタルを渡って、タジン料理を味わって、サハラの岩峰・岩塔とか、熱砂の彼方の未知の岩場を眼下にミストラルの元風に乗ってもみたい。スペインとかコルシカでのキャニオニング、メキシコやコスタリカの岩場やゴルジュにも遊びに行きたい。

年々、ラテン系の世界に引き込まれて行く。予感的には、家族と共に北イタリア再訪が固いな。
それでも、時々『ライムスト−ン・クライミング』中毒症状が再発する・・・・・・
クライミングの合間、シ−カヤックでのコ−スト・ツ−リングの途中の遊び、日本では殆ど時間を取らない『海』での釣り。ソルミュウの先で、見つけた数少ない着岸ポィント、小さなカヤックが自由に出入りできる岩礁帯にて。

この辺りでは入江や漁港、意外では珍しい休息ポィントでもある。日本からテンカラと共に、持参して来たルア−で楽しんでみた。

ずっと憧れていた、あの地中海の海に漕ぎ出して白いカランクの海岸岩壁を、ずっと見上げているとバドル操作も、一段と楽しい。昔は、カランクの白く輝く岩場でのクライミングにしか『興味や夢』を見てはいなかったのに、次の機会には、この地中海での本格的なロング・ツア−や釣りにも意欲が湧き起こってしまう。

そして、地中海の海上から、見上げた延々と続く白い壁には、まだ自分のクライミングの夢が沢山、残っていた。
バルク・ハッチに小型ク−ラ−にワインでも詰め込んで、バケットに生ハム、ランチでも持参して手頃な入江でボルダリングと日光浴を楽しみたい、リゾ−ト・クライミングが可能だ。素敵な雰囲気の、漁港の海に面したカフェで気楽なティ−・タイムも楽しめる。光り輝く地中海の『海』と言う、表現は本当だった。今風に表現すると『ヤバイ』クライミングを、ちよっと忘れてしまう。
懐かしい石灰岩の『シ−クリフ』