『藤内壁・1ルンゼ中又・連瀑氷』継承系のアイス・クライミング・オリジナル・ライン
1966年2月に2日間かけて牧野、藤岡両氏により完登された当時のアイス・クライミング
としては、画期的で先鋭的な『記録』現在の様に、安全に氷瀑を登れる技術や装備も
存在せず。同じレベルでの、記録も国内では見当たらなかったであろう状況も、考えれば非常に『冒険的なアイス・クライミング実践』の記録として、再評価されるべき内容のクライミングだと、私は考えている。『記録』が、書かれた文献や資料を、残念な事に私は、まだ見ていないが幾つかの情報の中には、カッティングとアイス・ピトンを使用したエイド・クライミングで登られたとの記述があり、素晴らしい情熱だと感じられる。継承系ル−トとして西日本・範囲で残る、近代ル−トの記念碑的なル−ト。
私が再登(通算2登目)の機会を得られた
のは幸運としか言いようがないと思えた。
当時はWアックス・テクニックは一般的に
多くのクライマ-が知り得て。実際に使え
ていた時期でアックス類も含めて、私より
もはるかに高性能で良い用具類物を持った
人達は、大勢いたから。
場所・エリア的に考えても地元クライマ-の
地の利を考えれば、2年・3年前に同じ様な
チャレンジで再登されていても不思議では
ない時期だった。

『記録の公表』は、何時もの如く
私が、このクライミングに誘ったOCSの林君が
様々な雑誌に、何度も詳細に公表している。
「ガイドブック」の方にも、情報提供しているので
知名度は、急速に浸透しただろう。

当時の氷結状態としては、決して良いコンディション時の登攀
では、なかったが何度も通って登りに来れる環境では無かった
ので、一度の山行。藤内壁への入山で前日にマイナス滝や奥又
の氷瀑を連続して登攀して最終日に、この『中又』を完登。

中尾根バットレス基部(左)に薄く、張った氷から取り付き岩棚で1P目を切り。チムニ-状の岩溝に続く氷柱が途切れていたのでこの部分を左にトラバ−スして、左壁より迂回する形で中段に続く氷瀑ルンゼへ。現在では、この氷のブランク・セクションも困難なオフウィズス部をフリ-で突破するラインを、2年後に再び再訪して私が拓き、その後6回も悪いと言いながら同じピッチを好んで登っているが。プロテクションを取るのには、何か特殊な用具を携行しなければれば、かなり危険なクライミング。一般的ではないだろう。
初登後から忘れられた
当時・関西最大の氷瀑
Wアックス・テクニック使用
での、完登記録

メンバ-
     舟橋・林・他1名

この時、仲間に誘ったのは、当時の大阪で若手ナンバ−ワンの林君。高校生の頃には、仲間を集めてOCS(クリ−ン・サ−ビスの頃ではなく、オ−サカ・クライミング・ソサエティ)を率いて積極的なクライミング活動を開始していた。私と同じ早熟なクライマ-で、この種類の攻撃的で他のクライマ−達が、手を出さずに残しているような「挑戦的な課題」に、誘うのには最適な仲間だった。前年まで私の講習会や実際の
アイス・クライミング体験の場にも、フリ−クライミングの機会にも、頻繁に誘っていたので確保を任せるのにも不安は無かった。何よりも、何か困難な箇所に遭遇したり、悪天候に嵌っても途中から降りようとは言わないタイプなのが好きだった。他の1人は、ゲレンデで偶然に知り合ったばかりの方で、その後に山でも出会う機会も無くなった。65cmのアックスはノ−マル・カ−ブのピック。僅かに先端を薄く、刻みを大きく改造した程度。バイルだけは当時の最新シモン・シヤッカルのリバ−ス・カ−ブ。アイゼンはシャルレのセニョ−ル14本爪。サレワのスクリュ−パイプ・ピトンとワ−ト・ホッグがプロテクション・ギア。3ポィントのエイド
(ステップ・ラダ-)使用で、中間部で15mほどのピッチでリ−ドを交代してしまい。全ピッチ・リ−ドと表現出来ないのが自分では不満。当時の、技術と氷結状態を考えれば、まずまずの課題・解決。最終ピッチの手前でリ−ド中に乗っていた氷板が剥落・足場が失われる恐怖もあって、プロテクションが取れずに突破した下部のワイド・クラックのピッチも考慮に入れれば、氷だけではなく岩も、こなせないと完登できないラインの開拓・体験は充実していた。

下段部は毎回2P目の氷が中段のルンゼに、繋がるか、どうかがすっきりと氷瀑帯を直上できるか、ボルト使用部を使って抜けるか一端、左に出てから困難度の高い『オフウィズス』を突破するか。更に、左にトラバ−スして純粋に岩場を登るか?短いセクションだがそれぞれ、クライマ-のセンスとスタイルにより選択する。最初からエイドで突破と、考えれば現在のギア類を駆使すれば、特別な困難な箇所ではない。最近は、ビレ−ポィント以外にも確実性の高いハンガ-・ボルト類が増え出しているので、精神的にも随分と楽だろう。
中段の凍ったルンゼ状セクションは快適
現在のギアと技術範囲なら初心者もガイド
利用での講習にも最適箇所と言える。

Wアックス・テクニックでの
アイス・クライミングを目標として
挑戦した、私達の記録が『中又』での、最初のフリ-意識を重視
しての完登記録。

(右・写真2枚・連続)中又の氷瀑帯、最終ピッチをリ−ドで
突破する舟橋。撮影者はOCSの林君。
白山書房「アイスクライミング」旧・新刊、共に掲載写真は
この辺り
で撮影されたものが使われている。

この時は、このピッチの核心部を突破する際に蹴り込んだ氷面が、板状に大きく剥離・崩落して困難度が倍加。
薄い、氷面でプロテクションも満足に取れず夕暮れ時の暗闇が、近づき始めていて精神的には少しばかり厳しいピッチ。後続、最後のメンバ-は時間節約の為にユマ−リングで、この最終ピッチを抜け出た。下降は私が無雪期に何度も使用してポィントを把握していた、稜線部・下を巻き降りる部分から、一ノ壁・頂稜部の岩場を、一箇所だけ短くラッペルで下降して、真っ暗な氷面を下って藤内壁から一般道へ下り。車を止めた鈴鹿スカイライン上の駐車場まで。

使用したアイス・ピトンは6本ほど、だったが。下部の岩場でナイフブレ−ドを2枚ほど使用。当然、後続メンバ-が回収。中段の残置ボルト類のリングやカラビナ・ホ−ルの金属塊は、手で触れると簡単に折れてしまう程度の腐食状態だった。いかに、誰も登りに来ていないか、年代経過が良く判った。

後続メンバ-は、幾分かは氷の厚く、張った箇所を選んで、登って来れる。

最終ピッチの潅木のビレ−ポイントから
後続メンバ-を見下ろすと、氷が殆ど残って
いない。
意外と、出口手前が急峻で困難な箇所。

最終の一人がユマ−ルで上がって来る頃
には日は完全に傾き、真っ暗だったが
周辺の地形や下降路を熟知したエリア
だったので、仲間達も信用しているので
落ち着いてクライミングの余韻も楽しんで
から、下降。意外と、予想よりも簡単だった
というのが本音。
この頃は、目標ル−ト1本で計画を終了するクライミングで下山する等と言った、余裕ある遊びで満足出来る世代でも無ければ何度もエリア範囲での『目標・課題』に、頻繁に通えるほどの金銭的な余裕も持ち合わせていなかったので『中又』でのクライミングを終えて、駐車場に降りて来たのは入山してから3日目だったろうか、奥又周辺の氷瀑も前日に登っており。

こういった継続的なクライミングの中で、一つ一つの
『課題』を達成していたので充実していた。
ヘッドランプは当時では、最新のワンダ-か何かの外国製品だったが、耐久性能は低く、同じタイプを何度も買い換えては壊していた記憶だけが残っている。第一、専用バッテリ-の購入が不便だ゜った。

神戸から通って来ていた私は、決して地元派のクライマ-とは呼ばれないが、通って来ていた回数よりも、定着して集中して課題に挑戦していた日数や内容は、当時としては地元の名古屋・範囲や周辺のクライマ-には、負けていなかったと思う。この『中又』での記録も、後々に藤内小屋での常連さん達との話題の中では驚かれていた。

現在でも、同じだが。記録的な他者との競争で、比較される『価値』とは、別に私には次への課題の解決や人とは違う目的での『夢の達成』や、限りのある『課題』を、ある程度は自分の自由に使える時間の中で、自分のコンデイションと課題の条件が、より理想的に合致して、過度に危険を侵さずに解決したいと考えていたので『記録の公開・公表』の意義と、公表する事による自己満足。そのタイプの充実度も楽しいけれど、過剰に『場』を記録として出したいとは考えては、こなかった。その為、クライミングの実際面で誘った若い仲間が、記録を様々に加筆して公表する事に、少しばかりの抵抗感は、あるが。出てしまったものは仕方ない。出さない方が我侭・自分勝手な意見なのだからと我慢もしていた。それが、良いのか・どうかは別にして。自分が主導的な立場で達成した『記録』に意見や、考えを表現できなかったのは、あまり良い環境とは言えない。こういった個人的な意見や、考え方を過去の記録や想い出でも、書き残しておく事に少しは意義や理由があるとすれば、継承系のル−トの発展は次ぎのクライマ-にも、少しは役立つ情報かも知れないし。次ぎの『課題の発見』や、更に次ぎの目標を見つけやすくする手伝いには、なるかも知れないからだ。
中又・上部の氷瀑部としては、最も氷柱形状で傾斜も強いセクション。50mロ−プで最終ピッチとして終了点の潅木帯まで、1ピッチで登り切れて快適に、一直線にロ−プが延ばせる。通算・個人的には4度目の登攀で、このピッチを仲間が撮影してくれた。
『この10年から、15年で中又ル−』トも、すっかりポピュラ-なアイス・クライミングの舞台として知られ出したが、初心者レベルが気楽に、遊びで立ち入る領域・範囲では決して無い。支点が増えてもだ。
このジャンルのクライミング記録で公表された『CJ』や『岩と雪』『岳人』への、初回のクライミング時の
記録は同行を私が、誘った若い仲間が似たような内容の記述で何度も、紹介している。唯一のガイド本である白山書房の『アイスクライミング』』にも、この時の古い記録でル−ト内容が紹介されていた為に、折角・数多くの課題と選択ラインが揃っている、一つの『場』としての、価値が広く知られなかったのは個人的には残念。
(上・写真)は、初回の記録には採用していないラインだが、私個人は条件が良かった機会に4回、この氷柱状部から最上部・左へと登って終了点を踏んでいて。『右ライン』『中央カ−テン状・氷板ライン』と、この左の3本のラインから終了点へ抜け出ている。状態の良い時は、当然ながら非常に快適なピッチである。
しかも、最初から比較的ステミング・態勢でのフォ−ムが使える場合は、更に快適。
初回の挑戦で氷結部が途絶えていたブランク・セクションの突破時には、残念な事に左壁で数ポィントのエイドを使用して、プライド面での満足度が、かなり減少した経験を持っていたので。2度目のトライ時に、この唯一と見えたフリ-の可能性がある岩壁に食い込むベルグラが薄く張った、見るからに悪そうな『オフウィズス』に目標を設定した。
サイズ的には、当時でも私は海外で購入して来た。ワイド・クラック攻略用のチュ−ブ・チヨックのセットや韓国製の、特大サイズのフレンズも所有していたが、ここで、それらを使えそうには思えなかったので持参はしなかった。この種類のクラックには、少しばかりの自信があったのも、理由だが短い箇所なのだが、非常に困難度は高く、確保点で見上げていた当時の仲間。OCSのイトウ君や仏大のタツタ君は、かなり気合の入ったビレ-で、最悪のケ−スに備えていてくれた。そして、後続の二人の、感想と賞賛を聞きながら、これもクライマ-特有の自己満足に浸れたのは、言うまでもない。それ程、この箇所は危険で困難だったから。このタイプはガイドの腕の見せ所・感覚もあるので、その後に5回もリ−ドしに来たが、6回目、以降は安全確保の為に、専用のプロテクション・ギアを邪魔なのだが、この箇所の為だけに持参している。いわくつき、のピッチだ。しかし、この種類の課題は危険を残して、使用して欲しいものだ。1本のボルトで価値は変化するだろう。少なくとも、最初に、この部分を突破した私でも、ここにはボルトは打たない。腕に自信のある方は、ぜひトライして、奮闘的なスコットランド・タイプの、薄氷オフウィズスを体験されん事を。このタイプを経験できる場は国内では少ない。

『毎年、少しずつ条件は変化していて、それが楽しみでもある」

1966年の初登記録の原本を、私は残念な事に
まだ見ていない。『東海山岳会・編の藤内壁』や他の断片情報によれば、カッティングとアイスピトンを使用したエイドクライミングでの、完登なのは確かだが要した日数には資料により、違いが゜あり。1日での完登なのか、2日間を必要としたクライミングだった、のかが判然としない。

それでも、日数や所用時間に関係なく、この氷瀑に挑戦した、意欲が評価される年代であり。価値は失われない。

私は、この先輩達の継承系ル−トで、自分の思い描いた『課題の解決』で、満足を得られた幸運を、素直に先輩達に感謝している。

過去があり。現在で、未来だから。やはり、時代に先駆けた挑戦を行った人達・クライマ-には時代や、世代を超えた敬意を表すべきでしょう。

(上3枚の写真は最新2005年2月に撮影)個人講習での『中又・下部壁』を使用した、トップロ−プ練習での写真記録。花崗岩の岩面に水氷が薄く、張り付いたタイプの氷壁と岩溝に氷結したルンゼ氷の、二つのタイプが体験出来る。最近では、この辺りから中段部までをアイス・クライミングの練習エリアとして、利用する人達が多いのか、真新しいハンガ-・ボルト類が多数、設置されているので安全に初心者でも『アイス・クライミング』が、体験出来るが、ル−ト下部に位置する環境を考えれば、少しばかり問題点も現れてしまう。注意して、かつ条件を見極めて初心者レベルのクライマ−は、立ち入るべき『場所』だろう。最上部からの落氷の危険は、かなり恐ろしい結果が予測される。それと、基本的にル−トに立向かえるだけの、経験や技量に欠けるクライマ-が無謀な挑戦で、墜落・負傷するなどの、以前には考えられなかった事故も、増加していると聞く。距離・スケ−ルと内容を、過小評価すべきではなく、最新の装備を備え、準備して来てもクライマ-の情熱やル−トに対応出来る、能力が不足ならば他の練習場所やエリアに、潔く転進。違う場所で練習すべきだと判断

シ−ズン末期には、ル−ト上にクライマ-が活動していなくても、自然、落氷の危険が増大する。

自然の気まぐれ。意外な、気象の変化で突然、生み出される『氷』に、関しては藤内壁エリアは不思議な環境なので降雨後の急激な気温の低下や、花崗岩の岩溝やクラックや岩の段差から、染み出す僅かな水が、徐々に氷結して誕生する氷面や氷瀑は、時期や場所を変える。
『穴場』や、隠された『課題』が、未だに残っているのも不思議だ。それを、見つけ・解決するチャンスは公平なのだから、、もう少し身近なエリアを再評価すべきでしょう。

『今冬はダメだった』と、良く聞く。情報のうち確かなのは、実は僅かな場合が多い。短いとは言え30日から40日間・範囲の期間の中で最適「時期」は、約20日間で、一端は登れる。登りたいと見えるコンディションが崩れても、条件次第では、この短い期間の中で再び『条件』が、回復する場合もあるからで。
一度や、二度の見聞・観察でシ−ズン期間の、条件を言い切ることは早計。

『ダメだった』と、言い切るクライマ-ほど、完登の体験がない様に見えます。

60年代の、技術と装備で達成された『課題に立向かう』のに勇気以外の、何が必要なのだろうか。噂話に不確実な情報や、他人の意見に左右される、決断と判断で現在の進歩して、過激に、より困難で危険な条件に挑戦できる、幸運を捨てるのは、あまりにも惜しい。

見落とされている『挑戦対象』は、意外と多い。
ヒントは数多く、紹介してあります。そして、幾らでも
情報は得られるのだから。

『トウナイ・ディスティニイ−』と、呼ぶ。三箇所の氷を
継続するライン、近々・紹介しようと思います。

過去32年間の私が知る『藤内壁』範囲での、入山経験の中で『中又ランス−ル』=(モンブラン山群・グランドジョラス北壁のクロワ−ル・アイス・ル−トから名称を得ている)と、称される氷のラインを実際に目にした事が、これまでに80年代に2回。90年代の初めに1回、あるのだが80年代のチャンスは仕事の日程で、逃し。90年代のチャンスも1日のロスタイムで、不完全な氷結と不足した装備でのトライだったが、チャンスは滅多に、訪れない事を知っていたので、強引に仲間を説得してチャレンジ。
この、時には1日分のロスタイムが大きく災いして、結局は中間部を少し、登った箇所で、あの極端に薄いベルグラ・アイス面のブランク・セクションを突破・出来ずに3mmの細いスリングを、残置ボルトにタイオフして、クライム・ダウンから、途中で左へ恐怖の振り子で逃げて、敗退。完登は逃したが、あの薄い氷面の表面をグロ−ブで擦ると、、透明な板ガラスを透けて見るような花崗岩の岩肌。アックスのピックに体重を預けて、気休め程度のタイオフ・スクリュ−ピトンを足下に見て、垂直を幾分・緩めた微妙な傾斜角度の『壁』の、中に引っ掛かっている。そんな感覚のアイス・クライミングは、当然ながら絶対に落ちれない状況のクライミングとして、けっこう・病み付きになる。こんな、不確定要素の高く、プロテクションに頼らずに60m以上も、真っ直ぐに、薄い氷面・壁を登るラインは珍しい。次ぎの、チャンスは中々、巡って来ず。4度目の機会も、やはり途中で氷壁が寸断されていて、下部からの連続したラインを登れなかったので『ランス−ル』完登は、未だに不成功。ビレ−ヤ-も、緊張するので何時もの様な記録写真も写しては、貰えない。ちなみに、故・黒川君と、このランス−ルが、最も『完全氷結』だった日を、下から見上げた経験がある。
同時期に、中又・最上部の中央ラインは猛吹雪の中を、仏大の仲間、龍田君が3P目、辺りでスナ−グの回収時にミスを犯してしまい、アイスハンマ-で指を叩き切り。後続時の雪面を鮮血で染ながら、登って来た光景を想い出す。最終ピッチは、この頃の『課題の一つ』大きく被った岩場・下からカ−テン状の氷板を裏側から、表に出て微妙なクライミングで直上。。氷板1枚を、隔てた相棒の影が透けて見えるよう、かなり危ない状況下でのアイス・クライミング体験。途中で目の前に水平な亀裂が、走った時は心臓が止まりそうな恐怖感を味わう。滅多に味わえない、リアルな恐怖。最上部の左ピッチの完登時は、同じく龍田君に、もう一人OCSのイトウ君を加えた3人で、下段部のオフウィズスを含めて、何時もの様に、リ−ドは、一度も誰とも換わらずに、私一人が楽しませて貰った。

『1ルンゼ・中又の右側』に、位置する急峻な花崗岩・・壁に、降雨後の急激な気温の低下や、強烈な
夜間の寒波襲来に、霙から降雪が重なるような、自然条件が揃う等の、滅多に無い環境・条件の時に
形成・発達する一種の『ベルグラ状・氷壁』現在、記録的には一例のラインの完登記録が公表・報告されている。
この種類の氷の厚みは、何時も期待出来ないが「アイスクライミング」のル−トとしては、時として充分に
登攀価値が生まれる『場所』は、藤内壁には他にも、幾つか条件次第だが存在している。最近の例ならば2005年に、私がライン設定した『穴場のライン』は、昔から多くのクライマ-・登山者から見られていたが「ル−ト』としては、認められてはいなかった。そんな『場』が、この関西から、中京範囲の山には、多過ぎる。

『中又ランス−ル』と、呼ばれる花崗岩・壁(全面)が氷瀑と化して細長いラインとして、フリ−クライミングのラインとして著名なバットレス「カリフォルニア・ドリ−ミング」スタ−ト地点から、終了点の潅木帯まで、国内のアイス・クライミング・ル−トとしては、非常に珍しいタイプのル−トが、上記の様な『条件下』で出現するこの「ル−トを完登』していない、私には内容をコメントする、資格は無いが。
現在でも充分に『冒険的な内容を持った』アイスクライミング・ル−トとして、クライマ-の一つの、課題として価値が残り続ける『場』でしょう。

御在所岳『藤内壁』での、アイスクライミングを思い浮かべる時
に、多くのクライマ-が情報として利用したり、記録を目にする場合
には初期の私達の『中又』の公表記録の中での名称・表記。

私自身は、当時は「藤内壁」での、活動を業務もプライベ−トでの
記録に関しても、あまり書かなかった。今、現在も雑誌類には書く
機会も無くなったが。
私の記録は、以外と多く出ているのに、関与していないのは
複雑な心境。

『中又』を対象としていたのは、私だけで。誘った仲間2人は、彼らが
その時に対象への想いが、以前からあった訳ではなかった。
兎に角『記録』ならば、何でも出したかった若い仲間が、同じ内容
で幾つもの、違った雑誌に情報・記録を出すのを別に支障も感じず
見てはいたが。私としては、ル−トの記録には、登った現実とは別
に、そのル−トなり。山域、関連した過去の先輩クライマ−達の
歴史、そういった記録の元と、なる過去からの思い入れや、執着心
とでも呼べる感覚が無いのは少しばかり寂しいとは思う。
そういった意味で、出て来る『記録』を複雑な心境で見ていた。

また、この種類の岩と氷がミックスした本格的な『アイスクライミング』が、当時の国内には少なくて比較する他エリアやル−トが知られていなかった頃なので、アプロ−チは短く、外的な危険も少なく。日帰り圏内としては別格の素晴らしい身近な『ル−ト』だったのに、記録が数多く紹介された割には、続登者は少なかったのは残念。興味を持ってくれたのは、八ケ岳で毎冬、小屋で同宿して夕食後などに雑談で情報交換を行っていた、関東系のクライマ-達だけで。荒川関係で同時期に素晴らしい『課題』を、達成していた同業者のS氏などとは、お互いに違うタイプのアイスクライミングを実践しているので、、良い情報を交換し合えていた。

ノ−マル(アルパイン)ピックでも充分に垂直部に対応

2006/04/03 (月) 20:40:07