アイスクライミング・情報 No1
    1985年『岳人』冬山技術特集/雪山トレ−ニング考
              (カラ−・グラビア特集)
       企画ガイド・モデルと技術解説    担当・舟橋
今から20年・以上も前の、私のアイスクライミングの装備が一目瞭然で判る『写真』
岳人の『特集・記事カラ−グラビア編』の、中の一枚ですが、この氷瀑は混雑する
裏同心ルンゼF2の、上部から枝分かれした支流・奥の氷瀑だったので当時は私以外に利用するクライマ-は、殆どいず。毎回・講習は貸しきり状態だった場所です。
この頃から、ジヤケット類にはインシュレ−ション入りが主流になった。
シンサレ−トが普及し出した頃だから、しかし数年後には実際の冬季クライミングの現場での濡れの、問題などから私自身はインシュレ−ション入りのジヤケットは好みでは無くなった。
両手のツ−ルは、シモンの『シヤッカル』片方をリバ−ス・ピックとして、もう片方は当時は最先端だった『セミ・チュ−ブ・ピック』を愛用していたが、当時のシモン社・製品のセミチュ−ブ交換ピックは雑な、鋳造品であった為にバキバキ折れた。通算3シ−ズンで5本も、無駄に折れた。
ピックの交換を余儀なくされたので、かなり印象は悪い。その後、このタイプのピックの製造・販売は中止されたが、シヨップへの苦情は当時は、全く相手にされなかった
『アイス・ピトン』に関しては、まだシュイナ−ド製品でさえ、旧モデルの片手ではセッティングが困難な肉厚・螺旋・切っ先、を含めてト−タル・バランスが現在・主流の半分の性能も有していなかった頃なので打ち込み・回転、回収方式の『ワ−ト・ホッグ』等のアイス・ピトンも主要・用具の一つだった。片手でのアックス・態勢保持での打ち込みは、かなりの労力を要した。
クランポウ(アイゼン)に、関しては国内でも最も初期に、良い先輩に恵まれた為に当時の国内には入荷・知識さえ、知られていなかった『シュイナ−ド・オリジナルの完全リジット』を使えていたので、ロ−システムの『フット・ファング』の購入と使用に、全く抵抗感を抱く事無く、他のリジット・タイプも兼用しながら、八ケ岳でも積極的に使用していた。
リジット・タイプでの、愛用品の筆頭は、当時のIBS大阪(店)の店長を、努められていた故・貫野さん、から借り受けて使えた本物・オリジナル『シュイナド』だったが、結局は、この本物を入手・自分の用具として購入する事は出来なかった。代わりに、使えた物で唯一、人にも薦められたのは、同じアメリカ製品のシュイナ−ド・タイプ。

前爪を含めて、当時としてもスパイクの短く、剛性の高くてサイズの調節が細かく可能な、完全パ−ツ組み立てモデルは、氷よりも実際は岩での使用に、適していて私は長く使用していた。似たようなモデルの代用品として、購入してしまった『ドイツ製品』は、形は似通っていて、同じタイプなのに相性が悪かったのか、材質も気に入らなかったのか、2セットも購入しながら、たいして使いもしないのに後輩に譲ってしまった。

『下駄の様だ』と、当時は酷評されていた『フット・ファング』は、スパイク部・特に先端のプレス歯2枚の強度が、構造上・弱くて当時は、とても稜線での歩行や継続時の岩場・岩稜での使用は、勿体無くて使えないので、交換・履き替え用アイゼンを背負っての使用が基本だった。

後にスペ−サ−を、取り付けて前歯の強度が、増した改良タイプが登場したが、その頃には、他のリジット・タイプに、良い物が入手できるように、なっていた。今ならば、当然なビンディング・システムでのクランポウの固定方法も、当時はサレワ社のワイヤ−・ビンディングが唯一・後付タイプを販売。ただし、ヒ−ル固定のプレ−トが、あまりに弱くて、数台・使用後に国産のタイプを使うようになった。ラプラウドやシャルレのクランポウに、バンド用のリングを切断してから、取り付けて、愛用していた。

現在では、当たり前の様にメ−カ−に、よっては良心的に購入時から『クランボウ=アイゼン』に、取り付けられている『湿雪・付着防止=アンチ・スノ−・プレ−ト』類。一般にはスノ−シヤットと呼ばれる板状の、付属品。これも、かなり以前から必要性から様々な方法や材質で、個人的に使用していた。

最も、簡易的で安価な方法で、現場での補修や、付け足し・が楽だったのが俗に
『ガムテ−プ』と、呼ばれている幅広の粘着力が強い、梱包用の布テ−プ。
このテ−プをアイゼンの底部に、爪を除いて全面に張り渡して、アンチ・スノ−の役割として使用した。残雪期には、殆ど問題は生じなかったが、時期や場所によっては所詮は重ねていても、強度の期待出来ない『布タイプ』の、薄い素材なので頻繁に、消耗する毎に張替えが必要だったのが、面倒ではあった。しかし、簡易タイプと考えれば、価格も安くて、いつでも自由に色を、取り替えられるので個人的には、随分と長い期間・これを利用していた。

製品が市販される、はるか前に大阪のシヨップで、そのアイデアを府岳連の著名なM氏に、提案した時には必要ないと、一笑された記憶があったが、同時期の宮崎登攀倶楽部のメンバ−には、同じ考えから利用者が存在していた。

超高硬度のジャンピング・ドリルと専用ホルダ-等、と言った本物の超マニアックなクライミング・ギアを、作り上げていた九州クライマ−は、この時期は大阪・関西の現役クライマ−達よりも、ことクライミング・ギアに関してのアイデアや製作・改良には、秀でていた様子だ。

この、特殊なジャンピング・セットも、実は個人・交友のル−トから、製作者から1セット・譲って使える機会に恵まれていた。長年に渡り、会報の送付と共に、今でも感謝しています。そういった経緯もあって『初版の宮崎の岩場』ガイド・ブックの裏に、私の名前を出さして頂く、機会も得られた。
77年・頃から本格的な『アイス・クライミング』のトレ−ニング環境として、私は関西から八ケ岳の赤岳鉱泉・小屋の、テント指定・場所にテントを張るようになっていたが、当時の小屋の管理人であったU氏は、貧乏クライマ-には、事の外・親切で、凍ったツエルトや衣類を石油スト−ブで、乾かせてくれたり、スト−ブの上で焼いた肉などを、頻繁に私達に、ご馳走してくれていたので、長期の雪上キャンプでのクライミングの、日々も快適だった。

その後、U氏が持病の心臓発作で小屋中で、急に倒れた日にも、私は偶然に遭遇してU氏を、下界へと搬出する、お手伝いに加われた。その後、奥様から回復したとの報を聞いてから、残念な事に八ケ岳で再びU氏と再会する事無く、今日に至っている

その後も、赤岳鉱泉・小屋との縁は深まり。ガイド&講習で毎冬・年末年始は殆ど、例外なく小屋とテント場を使用しての、ガイド業務を続けられた。一時期は小屋内にプロガイド専用の個人装備・ロッカ−まで設置して貰えて、便利に使わせて頂いていたが小屋の、全面・改築、改装時から、この便利なロッカ−を置く場所が無くなった。当時、このロッカ−を使用出来たのは、故・長谷川恒夫氏と私を含めて数人の頃だ。

京都府岳連の『検定会』の、講師依頼を受けて、大阪のM氏や地元の先輩・故、イケさん、と共に鉱泉小屋をベ−スに参加者のアイス・クライミングや、氷雪技術の指導を担当した頃には、午前中の講師・担当を終えて小屋に戻り、アイス・クライミング用具を、パラ装備と取替えて稜線に、とって返して地蔵を登り、稜線から夕飯に間に合うように急ぎ飛び出して、パラ・フライト後に小屋前に着地する等と、いった荒業もこなしていた。

厳冬期の八ケ岳・範囲での山頂・直下や悪条件その、もの、そういった条件でテイクオフ出来たのは、小屋に信頼するパ−トナ−・友人の池田つとむ、が働いていたからで彼とは、記録は僅かな例外を除いて、殆ど何も出さなかったが、八ケ岳でのアイス・クライミングでは、実に多くの経験を共に積んだ。あまりの、悪条件で阿弥陀岳・山頂の上空から旋回離脱も行者小屋・方面への着地も適わずに、北西の強風で最悪の状況を覚悟していた、空中でも仲間が待つ場所への、帰還を考えると不思議な事に、無傷で着地にも成功できた。今から、想っても不思議だ。
当時は、丁度アイス・クライミングが国内の状況を見ても、最も流行り出した頃で。各種・用具類の発展も目覚しい時期で毎シ−ズン、ごとに何かしら新しいアイス・バイルやピックに斬新なアイデイアや工夫が加えられた、製品や改造品を見る機会に恵まれた『八ケ岳』周辺は、良い意味での刺激に満ち溢れた山域・アイス・クライミングの実験場といった雰囲気だったので、各種・用具に関しては小屋で働く池田君を、含めて他の若手クライマ−にもコレクタ−と呼べるほどに、多種類のバイルやハンマ−を所有している者が、多かった。プロガイドも、この頃からアイス・クライミング講習と実践ル−ト・ガイドのフィ−ルドとして、この小屋を起点としたル−トを積極的に、採用する者が急激に増えて来た為、競争意識も僅かに手伝って、持ち込む用具・装備類は互いに刺激しあう環境へと進展していった。
                                        2006/05/16 (火) 10:25:50
『岳人・特集』記事の写真の撮影は、この時と穂高共に金剛寺氏が専属で入山。数日間の撮影は広範囲で、実際にアイス・クライミング現場へも同行してくれた。
特に『裏同心ルンゼ』や『中山尾根』での、現場撮影は八ケ岳・特有の寒気が厳しい、状況下での撮影で、当時のカメラマン装備には、身体的にも厳しい条件だった。
覚えている方は、かなりの鉱泉小屋の常連さんだろう。当時は、あの厳しい寒さの小屋でも飼い猫が数匹。よく、小春日和の様に日が、雪面に差し込む午後の一時だけはテント場の、私のベ−ス・テントに餌をネダリに、やって来ていた。この猫達の記憶を、持っている登山者は、いまは少なくなった。金剛寺さん、は流石はプロで、こういった可愛くて冬山らしくは無いが、面白いシヨットを写してくれていて、それが岳人のカラ−グラビアの中にも、小さくだがカラ-写真で出ていた。

当時は、小屋には温まりには頻繁に立ち寄っていたが。生活ベ−スはテント利用が当たり前だったので、雪山・冬山キャンプに関しての技術と、快適な生活システムに関しては、ガイド講習の中でも基本項目として、若い連中に教える事も多かった。

           

80年代、前半には冬季シ−ズンの前半は『八ケ岳』中盤からの本格的な個人ツア−は可能な限り関西からは、滅多に行かない地域・エリアへ。そして、後半に入る前に急いで、関西方面に帰って御在所岳や奈良県の、私達が開拓の諸端を拓いたエリアへ、が忙しい『冬の定例移動』シ−ズン・ラストは再び、八ケ岳へ。そうやって氷を求めては、あちこちに移動しているのが最も楽しい頃だった。
一冬・完全にアイス・クライミング行脚に付き合ってくれた、神戸のN君とのシ−ズンには、移動と実際のクライミングの忙しさに、記録を書くのさえ忘れていた。そんな、経験を積んだ『冬』が6年間も続けられたのが、今となっては不思議だ。
(下・写真)当時は、まだポピュラ−なアイス・エリアとしての存在が、広く知られていなかったアプロ−チが便利で、スケ−ル的にも満足いく氷瀑として関西からも遠出の苦労に見合うクライミングが、満喫できた。地元の広報誌・取材を受けた時に、車道から撮影して貰った写真。
            
(上・写真)の氷瀑も、近年の暖冬・気象で20年前のような結氷・状態に、なる事は少なくガイド利用での、ル−ト・ガイドとして最後に使用してから、しばらく立ち寄っていない。
条件的には、以前のような完全結氷が少なくなっているが、条件は日々変化してシ−ズン中に良好なコンディションとして水流を浴びることも無く、快適なアイスクライミングが、体験出来る条件もあり、現在でも関西から通う、価値は充分。
 
結局、最終的に3本しか所有。使用する事が出来なかった
オリジナル・シュイナ−ドの、このアイス・ピトンは毎回、どこ
か、から帰宅する度に、本数が減って。誰かの手に渡り
私のコレクションとして保有する事は無かった。

惜しい。歪みの無い、高品質のステンレス製品で当時に
市販されていた、同種類のタイプの中でも異色・秀逸な
用具の一つ。国産の模造品などとは、品質面での違い
は、おろか用具としての『美しさ』が、違っていた。

H君、返してくれないかなぁ・・・ビル清掃とジム経営も
順調そうだし・・・・