六甲山『堡塁岩』
RCC(ロック・クライミング・クラブ)のメンバ−が、現在の阪急「六甲駅」周辺から肉眼で発見。(一説には神社裏の楠の大木に登って、観察・発見したと言う)望遠鏡を使用して岩場の存在を、再確認後に当時の例会にて藤木氏に報告。そして、大正5年・開拓に着手したと、言われている『六甲山・域の岩場』の発見開拓期でも芦屋ロック・ガ−デン。仁川渓谷の岩場・百丈岩に、次いで利用され出した最も、国内でも古い歴史的な、経緯を有した『クライミングの場』
『堡塁岩』の、名称に関しては歴史背景・外観・そのものからのイメ−ジだと推察され『芦屋ロックガ−デン』と同じく、命名者は藤木氏。


当時から、西宮市・香枦園浜には、外敵からの港湾内への侵入を防ぐ目的で
石積みタイプの国内でも、初期の『円形・堡塁』が設置されていて阪神圏内に住むRCC
同人メンバ−には、今以上に『堡塁』の名称が身近な、ものだった。

幕末末期の建造と言われている、西宮『香枦園浜・堡塁』とは別に、日露戦争当時の堡塁等を連想させる、軍事用語の一つとして幾つかの堅牢・頑丈な建築物を指し示す例えとして六甲山頂・近くの岩場の外見から、名称として使用されたのかもしれない。
現在では『堡塁』の意味する外観や、イメ−ジを持てるクライマ−は少ない。
探査後に最初に『堡塁岩』での、クライミング講習会が行われたのは大正14年の記録。
私にとっては『神戸登攀倶楽部』入会時より、仲間達と共に文字通り神戸クライマ−のホ−ム・ゲレンデであり。倶楽部の仲間が、毎週の様に集まり、共にロ−プを結び合っての練磨・トレ−ニングを積み上げた、本当の意味でのクライミング体験の岩場。

その後、先輩クライマ−の数人を含めて『クライミング界の西風』と、呼ばれる集団にも、個人的に加わっていた私の先輩も、この六甲山の岩場から、広く活動範囲を、広げ出した事は良く知られている。


当時は『神戸登攀倶楽部』を筆頭に『神戸岳窓会』『神戸山岳会』『神戸FRCC』等の
堡塁岩をホ−ム・ゲレンデとする組織的な活動・クライミングの、実践者が多数いて後に
各既存・組織から離れた、より自由な気風と先鋭的なクライミング指向を持った、若手の
同人グル−プが、堡塁岩を起点として様々な活動を展開していった。

代表的な『同人』には木下誠・氏の『骨と皮』『MAJ』や、少し遅れて『ペガサス・クライミング・チ−ム』等と言った、小人数の『同人』と呼ばれる、呼称を採用したクライマ−集団の活動が活発だった頃で、阪神圏・以外からは大阪の林君・率いる『OCS』等も、頻繁に堡塁岩に通っていた。学生山岳部の活動が、低迷し出し人数的にも目立たなくなった時期とも符合する。同人グル−プの構成員は、年齢的に若かったが学生層よりも社会人・就労者が多かったのが神戸の特色かもしれない。

意外と知られていないが、80年代・中期からは人数的には、僅かながらも京都『金毘羅クライミング・エリア』から遠出して西宮市の『北山公園ボルダ−』と『堡塁岩』にも、若手クライマ−が課題に立向かいに来ていて、徐々に地元『神戸クライマ−』の牙城を奪う勢いを見せていた。(現在でも、滋賀・京都方面)方面からの、訪問者は絶えないが、一時の人気・訪れるクライマ−の人数は減少している。

牽引役だった80年代クライマ−と、三重県『名張方面のクラック』エリアの開拓者達も、徐々に活動から遠のき出して、情報交流の舞台は『堡塁岩のテラス』から、俗に裏六甲の岩場と呼ばれるエリアや意外と、関西範囲では遠方な『備中』や、遠出した『小川山』に移り出した感がある。

3本ラインのジャ−ジ−・パンツや靴底の白さが特徴的だった、オニズカや三宮「高架下」の安売りショプの運動靴で、現在のレベルで評価される5・10a範囲までの本格的な意識と理想を持った『フリ−・クライミング』が、堡塁岩では70年代の中頃から実践されていた。
若い仲間達と、地域の隔たり無く、そろそろ日本でも
本格的な『自主レスキュ−』の組織作りも必要かな。
そういった話題を、京都と大阪の二十歳代の仲間と
話していて、そういった個人レベルで常時・実際の岩場
に携帯する「用具」の使用を心がけ出した頃。
今なら、こんな大きなサイズの「エイトカン」は使用しない
英国「クロッグ社・製品」の下降器を堡塁でも使用中。

ロ−プの結束部が、通るとの説明を鵜呑みにしていたが
この「岩場」での、仲間との実践的なレスキュ−練習時
に判明したのは、9m径ロ−プ・シングルでの設定は何ら
問題なかったが、その他の状況では重量と比較して米国
CMI等の、器具と比較して「クロッグ」が特別に優れてい
る訳では無かった。

大阪の活動に序で『神戸範囲』でも、組織や所属の枠を
越えた救助態勢や、関係する技術の必要性が理解され
だし、『レスキュ−神戸』の名称での相互扶助・技術交流
の集まりが、形作られた。初期の会合から実際の『研修』
は、岡本の『甲南バットレ周辺』で実施され。

コンクリ−ト堰堤での、本格的なレスキュ−技術に関する
合同研修会の「使用技術」とプログラムは、金山氏からの
要請で、私が担当した。
当時、金山氏を中心としてワイヤ−でのリフト・アップが研究
されていて、『金太郎=用具・名称』だっか?工事器具など
も購入して、実際の岩場で試験的に使用したりもしていた。
そういった用具類・器具類のテスト場所としても、多分?
関西範囲では、最も早い時期から『堡塁岩』は利用された
岩場の一つだと思われる。

この頃から『堡塁岩』では、新進気鋭の若手クライマ−
が、それぞれの指向するクライミングのジャンル別に
当時・最新と呼べる各種の「クライミング・ギア」を持ち込み
俗に『本番』と呼ばれる、より大きな課題に向かう為の肉体
的なトレ−ニングと共に、新しい技術と用具の実験場所
用具を試す場所としても、広く認知されて使われ出した。

理由の一つには、『堡塁岩』が関西圏の中で最も手軽に
花崗岩のクラック・岩の節理に富み、鈴鹿の藤内壁と同様
な当時・フリ−クライミングの主流であったジャミングの体験
と共に、技術として必要だったチヨック類の使用体験が可能
で、手軽に各種・用具を使えたからだ。

フラット・ソ−ルやクライミング・シュ−ズと呼ばれだした
軽いクライミング専用の靴を履き、手指の汗を押さえて最大
源のフリ−クションを得られる、チョ−ク・パウダ−を小さな
パックに押し込み、腰に下げてのフリ−クライミングは、この
岩質の良い、花崗岩の岩場に最適だった。
1970年代の前半・期には、まだ充分には自由登攀?
(フリ−クライミング)意識が地元クライマ−に関しても
理解されていず、72年・当時から徐々に海外情報から
影響を受け始めた若手のクライマ−が、この「山の岩場」
から本格的な思想・指向性を持った『フリ−クライミング』
を実践し始めた。
初端・先鞭を、担った若手クライマ−の代表は同時期に
西宮市・北部の丘陵地帯『北山』に点在していた露岩か
ら『ボルダリング』を発信した、難波康則・秀則、兄弟。

それまでの『何々・山岳会』や、何とか連盟や協会と言った
既存の組織や団体枠から、集団登山・クライミングで活動
するのが一般的で、個人単位や小集団・グル−プが自由
に、岩場を開拓したり意義・意味大きな情報を発信、他の
多くのクライマ−に意識面で、大きな影響を与える現象を
発信し出した、時期と彼らが『古くて、新しく生まれ変わろ
うと動き出した岩場』で、精力的にル−ト内容と岩場自体の
価値を高めつつあった期間は同時進行系で、同じく同時
発生的に他の、国内の岩場でも同様の意識面での変革
は起こり始めていた。

『堡塁岩』と『北山公園』『荒地山』はクライミング内容は
少しずつ、異なるものの、根底の『フリ−クライミング』意識
に関しては、共通。実践・活動者の形態も、これまでの登山
組織や団体の『枠』に、ありがちな制約や規定に束縛され
ず、個人単位での交流・交友から活動の広がりが活発化。
『堡塁岩』でのクライミングは、他の国内の『ロック・ゲレンデ』の歴史的
な活動から見ても、ユニ−クで現在に続く「クライミングの系統」は純粋
なフリ−クライミングの実践・場所としての経歴を有している。
一般に認識・理解されて来た「ロック・クライミング」が、最も初期に・この
「山の岩場」で始まり出した頃には、クライミングは元来『自由』な行為
であって、行動に至る思想から、今現在で言うところの「ム−ブ」身体
での主張も、同じく『自由・フリ−』が基本。

積極的な「人工的な用具」使用による、高みへの挑戦や新しい用具を
使う為の、クライミング行為の様な活動に、右向け右スタイルで多くの
クライマ−の視線を向き始めたのは、意外な程に近代の形式。

『古いフリ−クライミング(自由登攀)思想・活動』と、現在・主流のタイプ
に意識面で大きな、隔たりが存在している訳ではない。ある意味では
原初的な理想や思想は、この当時の方が現在よりも純粋だったかも知れない
一方向性に流れ出すと『集団・追随』が、得意な特殊な性格を持った
我々の先輩達の多くが、根底のクライミング思潮・思想を結果至上・主義
と、海外情報の影響を受けて、オリジナル性を失った時代から初期の
理想的なスタイルに、揺り戻す・きっかけに、いち早く呼応したクライマ−
が、神戸に存在していた事が幸いと言うべき。

難波兄弟に続き、同世代から、更に若手のクライマへと意識面でも技術
面でも「フリ−クライミング』活動は、続々と継承されて「堡塁岩」は位置
する環境の良さと、他の六甲山・範囲の「各・岩場」と比較しての岩質や
形状・クラックの存在と傾斜と恵まれた条件から、今も各レベル層・世代
の違いに関わらず『人気の高い』ロック・クライミング・ゲレンデだ。
『堡塁岩・中央稜、下部・南面(左)檜のテラスから左側フェ−ス』
まず、この『岩場』での、本格的なフリ−クライミング・ム−ブメント
ある意味で、画期的な『出来事』だった、大ハングでのフリ−クライミング
地元クライマ−でも、当時の感覚では、ごく僅かな人数にしか「課題」と
見られていなかった。私を含めて、実際に・この「ライン」に取り付き庇に
手を触れた経験を持つクライマ−は、実に少なかった。
当時のレベル範囲では、ハング出口までも到達できないと単純に意識
面で、制約が働くクライマ−が多かった様で、実際には残置支点に関し
ては、一抹の不安を残してはいたが、その頃に真摯にクライミングに向き
合っていた者ならば、庇から顔を出す程度は意外と誰にでも可能なフリ−
だった筈だ。見えていない解決策を、見る・解決するには、実際に自身が
挑戦し、触れて見なければならない。
最初から『無理』と、拒否・拒絶していた人達は勿体無いと思える。
解決者は、関東からの来訪者『国内にニュ−ウェ−ブ』を布教?させた
張本人・ジョン・パ−カ−・シヨックを日本に持ち込んだ方だ。何度も、国内
にシヨックを与える事が、布教者?としての役目と、ばかりに地元・神戸の
観客も少ない時に、良いパフォ−マンスを披露。この時にも、私は同行し
ていて、貴重な『現場・証拠写真』を撮影できたが、観客の少なさは惜し
かった。現場を目撃する『地元クライマ−』が数倍だったら・と思えて仕方
ない。同じ事は、数年後に岩崎氏と共に、私宅に来訪して堡塁岩の課題
も、あっさり解決した『最強・ペア』にも言える事だった。
その後の、関東からの来訪者の中でも『北山制覇』の圧倒的な力量
に驚嘆した、檜谷氏にも驚かされたが、関東からの来訪者とのセッション
に恵まれていた私は、幸運だった。
初期の六甲山フリ−クライミングの『クラック・ライン』として、再訪・再登者の多い快適ル−ト。
『電光クラック・ル−ト』と呼ばれ、70年代の前半期に運動靴にチョ−ク無しスタイルで残置
支点を使わないチヨックのみで登られていたル−トで、比較的・古くからル−トに変化が見受けられないル−トだと思われる。

W級+15m オリジナル・ラインの登り方?は、大ハング上までを、右側のフェ−スから左上
して、外傾バンドからクラックに沿って終了点へ。(古典的ル−ト選択)
堡塁岩・最大の『課題』として注目を集めていた中央稜下部
左端に位置するル−フ・タイプの特徴的な「ハング」ライン。
関東からの来訪者によって4登目まで、達成されて地元クライマ−
の自信を失わせた、いわくつきル−ト。

ル−フ・クラックを困難なジャミングとパワ−で突破するラインとして
初登された後に、ある大阪の若手クライマ−の練習中に核心部の
クラック内の小片が、剥離してしまいジャミング・ポィントが変化して
困難度が増加。

壊した本人には、全く悪気は無く。その後ずっと反省、気にしていた
が、その後その本人が堡塁岩に来なくなったようだ。

一部で故意に誰かが、核心部に手を加えたのではとの噂話を
岩場周辺を含めて、話していたようだがチッピングの嵐と呼ばれた
悪名が高く成り出した、頃の『不幸』堡塁岩には不動岩と同じ様な
クライマ−社会?の恥ずべき歴史的な期間・時期が残っている。
ジャミングからル−フ出口に顔を出せれば、次ぎの2手は比較的
反復練習で可能性が高く、この時期にトップ・ロ−プでならば、私の
ような非力なクライマ−でも、完登が可能だったが意外な程に
ハングに、ぶら下がりに来ているクライマ−は、少なかった。

ジャミング・ポィントを失ってからは、逆にトライする者が増えたが
私の知る限りではトップ・ロ−プでのトライでさえも、完登する者は
少なく、リ−ド・スタイルでの再登者を知らない。

『岩と雪No143』に堡塁岩の詳細・情報が紹介された時に、この
大ハング・ル−トの記述があって、記事には東秀磯が挑戦。
トップ・ロ−プ使用で完登したと報告されている。
人工登攀・華やかな頃?このハング
を攀じていたクライマ−達が、この新しく
フリ−クライミングの課題として再生した
ハングを、ど゜のような感慨・気持ちで見て
いるのかは、個人的には大きな興味。

しかし、私が『神戸登攀倶楽部』の会員として
最も、頻繁に『堡塁岩』に通っていた頃に、この
ハング・ル−トをエイド・クライミングでも攀じて
いるクライマ−を数人しか、見ていない。
ハング出口の『リング・ボルト』が打たれたのも
実は新しくて、この出口のボルト1本が残置され
ているか、いないかで、このル−トの困難度は
アブミにフイフイ使用の頃でも、大きな差異が
生まれていた。チヨックを使用して登るクライマ−
が当時・殆ど存在しなかった頃の先輩達は何を
支点としていたのか、これも興味を惹かれる。

木片の『楔・クサビ』を、私が高校生の頃に
中央稜の、どこかのル−トで見受けた記憶が
あって、不動岩にも同時期に、そういった用具
の残置を確認していた。
今現在、そういった古典派に属する「用具」を
見る事はおろか、用具としての存在さえ知らない
クライマ−ばかりだろう。
RCC時代の先輩達は『東稜ル−ト』を1本の
ピトンもボルトも岩肌に打ち込まず、登ったと
言われている。
『大ハング・ル-ト』は、当時は関東で著名なクライマ−が挑戦対象として登りに来ていたル−トで、今で
言うクライミング・ツア−の走りの場所とも呼べた。『日本登山体系』の関西編で六甲山の岩場を調査
報告する担当に私が、指名されていたので編者の岩崎氏・大内氏とは懇意な間柄だったので、私が
芦屋のルナホ−ルで主催・実施した時に、戸田氏からジョンパ−カ−のスライドや当時としては雑誌写真
ぐらいでしか、見る機会が関西では得られなかった最新のヨセミテ・クライミング情報を借受けられる機会
が、得られて、穂高時代の涸沢の居候達からの縁が、チ−ム・イカロスのメンバ−とも、繋がったりと関東
範囲で活躍する、他のグル−プのクライマ−とも交友関係が増えていた。

岩崎氏からの紹介で、私の家から『堡塁岩・六甲岩場巡り』を楽しんだ、関東からの来訪クライマ−の中に
は室井・吉川ペアも含まれていて、戸田氏の大ハング初登後の印象的な再登者の一人は吉岡氏だった。
豪快なレイバックで核心を突破して、ハングの課題を解決。

その後の3人の再登者も関東勢で、皆さんタイプ的に同じ様なスタイルで核心部を突破したのが興味深
かった。
2006年『最近の堡塁岩』

車道からの岩場へ向うアプロ−チ道は、補修する者
が、いないので徐々に荒れだして来た。

近年は『堡塁岩・中央稜・終了点』から俯瞰する景色
情報が、一般の登山者や観光客にも知られ出したので
平日にもクライマ−以外の人達が、岩場上まで景色を
楽しみに入って来る。

車道からの入口に『堡塁岩』の、看板が出ている事が
理由だが、個人的には下降路から岩場を見に降りて来
る人達の話がネット情報にも、で出だしたので少し心配。

(右・写真)出張ついでに時々、遊びも企画も手伝って
くれる、涸沢時代からの古い山仲間『高島君』
関東『イカロス・メンバ−』で、現役時代は一緒に
穂高・以外で遊ぶ機会は少なかったが、最近は
よく遊べる機会に、恵まれ出した。

2007年7月30日の『香芝スポ−ツ・クラブ』の子供達
30人・参加の沢企画も助っ人・参加で手伝って貰い
ました。二人で、久しぶりに『堡塁岩』で遊ぶ
『堡塁岳派』 神戸登攀倶楽部のメンバ−(甲斐駒・北坊主岩での開拓・時期)

『堡塁岩』が私達の文字通りのホ−ム・ゲレンデだった。
堡塁岩『東稜』 風化の影響を受けだした取り付き、意外は比較的・安定した岩場
大きく3段の岩場・構成で初心者のクライミング体験にも適しているので
ウォ−ミング・アップ的に、利用されているが以前にはアイゼン装着での
トレ−ニングにも頻繁に使用されていた。
堡塁岩『西稜』 最も初期に西稜・東面のコンパクトなハング面でのフリ−クライミングが
課題として多くのクライマ−に体験されてから『この岩場』での本格的な
フリ−クライミングの流れが始まった。
下部・正面のクラシックなラインは、かなり古くからクレッタ・シュ−ズや
ビブラム底の登山靴・使用でフリ−で登られていて、レベルの高い先輩
達の痕跡を感じる。
堡塁岩『中央稜・下部・正面壁』 堡塁岩に集まる、多くのクライマ−が一度は登るル−トが集中していて
『大ハング』は、この下部壁・左端に位置している。東稜側と中央稜・トップ
から、この正面壁には下降路が利用できて混雑する場所でもある。
堡塁岩『中央稜・東側・下部』 以前はクライミング・ダウンに利用されていたクラックの岩場と左側の
ブロック状岩塊の乗る、カンテ上のフェ−スが良く、利用されていた。
現在はクライム・ダウンせずに、残置支点からのラペルが一般的。
カンテから上のフェ−スは快適で、この右側のフェ−ス面のル−トを
利用する者は、少ない。
堡塁岩『中央稜・西側・下部』 1980年〜81年に整備・ル−トの開拓が行われた。
現在は、堡塁岩を代表する岩場として知られている。
堡塁岩『サルカニ・フェ−ス』
堡塁岩『中央稜・東壁・中段』
堡塁岩『中央稜・帰り道・岩』
堡塁岩『概念図/ル−ト』
堡塁岩『最新ル−ト情報 No1』 2007年『岩場の現状・報告』及び、個人的・雑感
『交通・宿泊・温泉・情報』
堡塁岩『グレ−ド関係・資料』
『2007年・堡塁岩リボルト』
『堡塁岩』が、関西範囲のクライマ−意外にも知られ出し
『ボルダリング』に対する、クライマ−の興味が増え出し
て、『六甲山』の岩場やボルダ−を目的に当時としては
珍しかった、関東周辺のクライマ−からの連絡が急激に
増えた、時期があった。

穂高・涸沢時代の居候の若い連中が、その頃には年齢
的にも、学業を終えて東京都内から各地域へ居住場所
や環境も移りだしていた頃で、グル−プ的にはフリ−重視
の比較的・個人の自由意志で気楽に様々な岩場を楽しむ
事が可能な仲間達は、私が『六甲山』近くに住んでいる事
を思い出した様で、次々に『縁を頼って方式』で、かなり
気楽に・・・涸沢のテントの頃の様に、私を頼ってくれた。

小川山で知り合った若いクライマ−も含めて、穂高からの
縁も含め、雑誌や登山体系での関係から生まれた、当時
の新しい知り合いを加えると、かなりの人数のクライマ−
が、狭い我家を起点として「六甲の岩場」を楽しんで更に
西へと行動半径を広めて、補給基地?並みに私の家を
活用してくれていた、頼もしい連中もいて、その活動を直接
知る立場に入れた事も、幸運な事だと思っている。
『トップ・ロ−プ・リハ−サル』現在では、リハ−サルと言う
表現が徹底的に嫌われているのと、何か、やはりフェア−
なスタイルでは在り得ない事を、承知していて表現の中か
ら消去したいのか、トップ・ロ−プでのクライミング・スタイル
そのものに全く抵抗感も問題も、感じないのか?
この『安全・保障』のクライミング・スタイルに関して何か反論
する様な人達を見ないし、意見も聞かない。

1978〜1986年までの時間経過の中で、このスタイルは
何かの、アジテ−トや論争を経て普及したと言うよりは、暗黙
の了解・反論は不要・無用の風潮の中で、どの岩場で誰で
もが、利用するスタイルへと変化していった。

10代の後半から、かなりの時間と情熱を『この遊び』と山に
向けて来た。『トップ・ロ−プ』を、受け入れてからのクライミン
グと、それ以前のクライミングの違いを、記憶の中で真剣に
比較し出す事が、少し多くなって来た。
『堡塁岩』は、私達の世代で、そして青春と呼ぶべき時代に
自分達なりに『クライミング』に、向き合っていた者には忘れら
れない想い出の『岩場』ではある。

六甲の他の『岩場』の、常連クライマ−や集団の中で特別に
『岳派』を、使用している人達はいない。

『神戸市・芦屋市・西宮市』から『堡塁岩』は近い。
70年代の私達は、ほとんどが次ぎの本格的なクライミングや
スキ−ツア−の計画。それに、遠くに感じていた海外への夢
の実現の為と、クライミングを終えた後や、平日の夜の会合
と言う名を借りた、ジャズ喫茶から台湾料理での楽しみに
『堡塁岩』までの、交通費を節約するのが常だった。

あのRCCのケ−ブル軌道を、運行が終了した深夜に単調に
そして意外と苦しく、重荷を背負っては登った。
Thursday, January 11, 2007
神戸派は『堡塁岩と妙号岩・コウモリ谷』へ、大阪派は俗に裏六甲と呼ばれていた『蓬莱峡と不動岩』というそれぞれのクライマ−の所属する組織による、活動区分が見えていた頃には奈良県や京都のクライマ−は岩場のスケ−ル評価で『不動岩』を最初に注目するようだったが、小豆島の岩場群が『神戸登攀倶楽部』から、情報として公表され出した頃には、岩場の質的な問題に興味を抱く若手のクライマ−が増えて、『堡塁岩』が休日ともなれば異常に込み合う時期があった。その少し前、80年代の前半期には、神戸と言う土地柄も大きく影響しているのかも知れ無いが、海外から日本を訪れているクライマ−の人数も増加し出した。登攀倶楽部の活動の中にも、毎年・数人の友人が加わっていた頃で、私達には、つたない語学力やコミュニケ−ション能力を全開に発揮していた。
私は、後に当時の信じられないような国策で自由に隣国から、この国の山や岩場を楽しみに来れなかった若い友人達を穂高からの縁で、保証人や名義で支援・協力する機会に恵まれた。
そう言った、隣国の友人達とも『堡塁岩』での、想い出は多い。
戦前、戦中派・世代のクライミングは大正末期の高揚し、きらめくような精神的にも自由なクライミング環境を享受できなかったので、『六甲山の岩場』に、関しての文献情報は乏しく、特に『スケッチ画タイプのル−ト図』も非常に保存状態が悪かったり、意味や場所の判断が困難な物しか、存在していないようだ。
現在の様な『トポ的なル−ト図集』は、戦後に入ってからでないと、役立つような物は無かったのかも知れない。

過去に一度だけ『ル−ト』が、判別できる『堡塁岩』と
『百丈岩』そして、現在の『芦屋ロックガ−デン』の一部だと理解出来る、スケッチ画の実物を拝見する機会があって、その時には判らなかったが後に、藤木氏の穂高岳『滝谷でのクライミング』関係の資料として、現存するらしいC沢・周辺などの、概略図と岩場をスケッチした図に、この『六甲山の岩場』の書き方やタッチが似通っていた事を思い出していた。

1971年頃の『滝の茶屋』、茶屋の夏場の販売店、これは確かロックガ−デンのハイキング・コ−スのメイン通りでもあった中央稜・途中の高圧電線・鉄塔の直下に簡易的に設けられていた東屋で飲料品の販売が行われていた頃だが、額縁入りのRCCメンバ−直筆のB懸垂岩のスケッチ図を、見た記憶がある。
71年よりも、前かもしれない・・・・・
山岳書を古本で探すのが、重要な趣味?活動だ゜った時期に、河童横丁で見つけた一冊の登山案内書に『堡塁岩』の記述を見つけた

現在の中央稜を正面から俯瞰したような、現実的には目視できない位置関係からのスケッチ図は確かに登山者の視線と言うよりはクライマ−目線・意識で岩場を観察して図に示したように感じた。残念な事に、当時の私には購入できない価格だったので、その辺りの情報だけを店頭にて頭に叩き込んだ。

多分IBSが、大阪に出店して(開店当日に私は店先で社長に、アルバイトを申し込んでいる)その、数ヵ月後の梅田での記憶だから高校1年の夏前頃か?

『堡塁岩』のスケッチ画ル−ト図は、今風のトポよりも写実的で、面白く再び見出してみたいと願っている。
『堡塁岩でのクライミング中の事故』は、環境や岩場のクライミング内容から、考えれば他の六甲山の岩場よりも多いのではないかと、思われているが80年代から、頻発している事故以前には致命的かつクライマ−の死亡に結びつくような事故は、僅かだった。

多発し、中央稜の上空にヘリコプタ−が飛来し新聞紙面で事故が取り上げられるようになったのは、実は95年・以降のことで、小さな事故や下降路からの転落事故による負傷者の救出作業などを知るようになったのも、この15年・範囲での実例。例外はフリ−・ソロ(ロ−プ不使用)での、個人の墜落事故が非常に短い、年数期間に数度、起こっていて3回の同一の事故は私も良く知っている。

1度は、連絡と搬出作業に私達も加わっている。多分、この種の事故は他にも引き起こされていると考えられる。

2度、同じタイプの事故を起こした方が誰なのかも私達は知っているし、他のクライマ−にも直接的な危険を及ぼしかけた当人の事も、私達は知ってる。
関西範囲の登山者・クライマ−の多くは、『六甲山の岩場』の中でも、堡塁岩に特別な愛着を抱いている者が多い。特に、60年代の後半時期から80年代の、最もクライミングに関しての、根本的な思想と行動に関する進歩と発展が、俗に言う『フリ−クライミングの新しい波』今から、思えば表現に気恥ずかしさ、メディァ主導のキヤッチ・コピ−の様な『ハ−ド・フリ−』の、表現に代表される、昭和の時代に徐々にクライマ−自身の手によるものだが、日本国内でのクライミング範囲と活動の質的な領域も含めた、閉塞感やエイド・クライミングに関する無批判な容認や誰でもが同じ様な、クライミング・ル−トの製作。ボルトに代表される、各種・用具の乱用によるクライミングそのものが量は別としても、加速度的にフリ−クライミングの『質&内容・レベルの向上』が進歩・発展していく海外からの情報が、日本人・自身によって実体験の報告から、知られ出した現実から、まだヨセミテや辺境のビッグ・ウォ−ル等での、実際のクライミング゜を知らぬ身でも、一種『強い憧れと、遅れている焦り』それに、追いつきたいと言う願望も加わって、意識面での変化が岩場自体にも求める『質』が、大きく変化した時期のクライマ−が求めていた環境に『堡塁岩』は、RCC時代の最もクライマ−が純粋・真剣だったクライミングの場に再び戻ったがごとく、活動の舞台としての評価が再確認されて、その当時に実際に『堡塁岩』でのクライミングを体験していた人達は、その時期の多くのクライマ−の持っていた、高揚感や変化の中でのフリ−クライミングの実際を、その目で見、雰囲気を体感しているので、活字・情報しか知らないかも知れない、後のクライマ−と大きく違う、心理面での共同意識を強く持っている。

そういった一種の場を共有する『仲間意識』は、他のクライミング・エリアで毎回、偶然に週末に岩場で顔を合わす範囲の付き合いよりも、少し仲間意識の様な感覚が強かったようで、グル−プや所属組織による規制や当時の山岳会レベルが持っていた、暗黙のル−ルだった他のグル−プ・メンバ−と勝手にクライミングや山行を行えない常識や会則などから、離れた個人的なクライミング活動へと発展していった。
『同人システム/スタイル』は、そういった時代の流れに無理なく、呼応した若い世代層の『山岳会』離れを、加速させたようで、『堡塁岩』には関西範囲の中で最も、若い年代層のクライマ−が集まり出した時期がある。

変化を感じだし、実際に変化するクライミングの、真っ只中でクライミングを楽しめた『年代層』は、同時に他の
『岩場』での、急激に変化していった日本の『フリ−クライミング揺籃期』も、現実の世界の中で目にして、意識面も肉体面も含めて、体験者として、一種の優越感を持っている。
この『優越感』には、当時の最もフリ−クライミングが盛んに成りだし、実践者の集中していた関東との比較や、ある意味でのライバル意識と、徐々に中心地に、発展し出した小川山や伊豆方面には、距離的に遠い関西で時代に遅れないという自負心や要求と言った意識での、関西・六甲山『難度の高い岩場』を持つ『岩場』で、クライミングを実践していると考えたい中での地域性から、一種の地域性の共同体と言う感覚が生じたようだ。

『RCC』発祥の地など、私達の世代が『堡塁岩』で、フリ−の波に、もまれ出した頃には、それほど強く過去を意識はしていなかった。意識面の深層部に、僅かに自負心が残っていたとしても、それは僅かだったと思われる世代間での『堡塁岩』に、関しての想い入れは大きな隔たりが生じ出した頃なのだが、岩場の雰囲気や岩質の良さも、さることながら神戸市を眼下に見下ろす位置的な環境にも、大きな要因はありそうだ。
Wednesday, 13 May, 2009
Friday, 23 October, 2009
Friday, 23 October, 2009 1975年に『神戸登攀倶楽部』の仲間達と、堡塁岩で遊んでいる写真を発見。写真の裏に当時の『岩場・ル−トに関してのメモ書き』も、見つけた。