彼と出会ったのは・当時は交通費が不要で、自宅から自転車に乗って簡単に通えていた、東六甲の最も住宅地が岩場の傍まで迫り出していた『仁川渓谷の岩場』

神戸のN君達と、何時もの様に、かっての石切場・跡で当時は珍しかった?前傾壁でのトレ−ニングに適した『三段岩』だったと記憶している。

私が生れて初めてピトンを打ち、リ−ドでのクライミングや本格的なザイル
(クライミング・ロ−プ)やクレッタ・シュ−ズ(クライミング・シュ−ズ)を使い始め。後に所属する事になった『神戸登攀倶楽部』との、出会いの縁を与えてくれる、きっかけとなった仲間と知り合ったのも、この小さな岩場での出来事だった。当時の彼は、高校生で一人でクライミングを模索している最中だった。岩場の上で、まずN君が声をかけて・・・・・・

想い出に残る彼との最初の本格的なクライミングは

当時は冬季になると必ず一人で入山していた山陰
『伯耆大山』雪が吹き込む、避難小屋で1週間から
10日ほどの耐食訓練を兼ねて、ひたすら北壁を登っていた頃に、個人ガイドの依頼に彼と、彼の友人であったOCSの若いメンバ−を加えて、4名で北壁の鏡岩ル−トと・この当時としては情報が少なかった挑戦的な『課題』に彼も同行していた。

確か、出会った頃の彼の年齢は17〜18の頃だった。

数年後に、彼が大学生だった頃に私の主催する年間プログラムのクライミング・スク−ルが毎冬に、行っていた八ケ岳の赤岳鉱泉をベ−スにアイス・クライミングの講習や、阿弥陀岳や赤岳のル−ト・ガイドの折に彼をアシスタントに選んでいた。当時の彼には『ガイド』やアウト・フイッタ−等の業種・職業に対する興味や、憧れ・そういった、ものを自ら抑えているのか、本質的に意欲が無い風に行動を共にしていて私は感じていた。

数年間。彼には四季を通じて私の講習企画を手伝ってもらった。

八ケ岳・ジョウゴ沢・等でのアイス・クライミング講習で参加者へ
アドバイスを行っている時のスナップを私が写していた。


六甲山・大山・穂高・御在所・八ケ岳・荒川出合・当時の新しい岩場へ。彼が私に、付き合ってガイドと、してではなく。アシスタントとして様々な講習やガイド・プランに参加した人達と触れ合った。

その人数は、意外に多く。
殆ど、怒りの表情を見せた事も無く。ある意味で、ひょうひょうとして、深く物事を悩まない・・・表面上は、そう見えていた彼は、年上から可愛がられる・良い性格を山の中でも出せていた。

反面・何度か私が強く指摘して注意を促したにも係わらず厳冬期のセオリ−を無視して、乾燥し寒気が厳しい中・耳を隠さずに小屋に帰って来ると、ひどい凍傷だったり。確保支点の本数を増やせとの指示を理解し、判っているのに単純な横着で増やさなかったり、ある意味では若いクライマ−ならば、一度は経由する山に対しての傲慢さをも当時は当然ながら秘めていた。

一時期・鈴鹿の御在所岳『藤内小屋』を平日にも自由に出入りして
連続・日程で藤内壁での冬のクライミング講習会を続けていた頃。

ガイドの仕事では、記憶に残る雪崩で私と参加者1名・そしてビレ−のアシストを引き受けていて、くれた彼と3人で、激しい降雪に危険を感じて氷から降り出した直後に、背後から襲われた『雪崩』は最後を歩いていた彼が、私達2人を飛び越えて前方に吹き飛ばされて、救出も彼を最後に、私は・その時に本当に急いだ、彼を雪面の下から掘り出すのを。その時は、全員・無傷で精神的なダメ−ジを受けた意外は外的な損傷は受けなかった。その時も、彼は格別に慌てた様子も無く、いつものペ−スだったが、現状認識が出来ていたのか今では記憶に残っては、いない。又、別の機会に、私の仕事を終えた翌日に彼と山中で合流して氷を登り。
アクシデントが発生して、二人でル−トから敗退した事も記憶に残っている。それらの想い出の中でも今では信じて貰えないだろうが、あの藤内小屋から深雪のラッセルを続け。藤内沢・一壁・下までの急な雪面で交互に交代していたにも、かかわらず『ラッセル敗退』その時は、頭まで潜る信じられない積雪に、踏み固めても、押さえつけても体が沈み続ける深雪に、雪崩の恐怖も加えての敗退。小屋に帰って二人で、笑った。

彼が海外クライミングの旅に出て。長く、日本を離れて活動を続けている事や、個人的な噂話など、の多くは関東の古い山仲間から断片情報を聞く機会が、多かった。その後クライミング雑誌に彼が書き始めた文章を読み。ある日。私の住む街の中華店で、偶然に彼と彼の仲間達と出合って、彼が私達のテ−ブルに挨拶に来た。
その時の会話は、裏六甲で私が講習会用に整備して利用していた(某)渓流を彼も、利用させて貰っています。別に承諾が、必要な話しでは無かったが好感を持った。彼のガイド仲間・一緒に企画を運営・実施している仲間の一人が、偶然だが前年の春に私が誘った花見の宴会にも加わっていて、直接・その頃の彼の活動も聞き及んでいたので、一声かけられたのは・やはり・うれしかった。
彼がアウトフイッタ−(アルパィン系ガイド)として、山と川・関係の仕事を始め出していた事は、数年前から知っていた。

また、機会を見つけて。・そんな感触を持ちながら、その後は電話で簡単な会話を数回・・・・・・・・・

『訃報は突然だった』

第一報は古い友人から
次は、同じく古い昔のパ−トナ−からのメ−ルで

短い時間の中で、幾人からの連絡が続き

翌日に私は、現実の情報として、理解した。

クロカワ・メモリアル・ロック

葬儀に出て急な連絡だったので・・・・途中から退席して
外に出た。翌日の撮影・業務の打合せを済ませて・帰宅・・・

彼とは、クライミングで出会った。
だから・と言う訳ではないが・・・・・・

かって『クライミング雑誌』に彼との共著で私達のホ−ム・ゲレンデのガイドを書いた事があった
同じ様に、山関係の古い『記録』の中にも、彼と共に、彼と同世代の仲間達と私が組んだクライミングの記録が幾つも残っている。写真は大量に残っていた、講習会・記録が多いので彼が参加者と一緒に写っている
数年後の彼は、良い『プロのガイド』に成長したと思う。きっと、そうなったと私には思える彼の死後、奥様からの葉書が届き。彼の子供の誕生を知った。
残された者の悲しみは、大きく深い。写真を整理して、いつか手渡そうと考えています。
MCS 舟橋 健
彼との共著・協力して書いたクライミング・ジャ−ナルでの岩場紹介・記事が見つかった