仁川渓谷の岩場 『摩天楼』
1976年に安価な『運動靴』使用にて、それまで登られて
いなかったラインを、フリ−クライミングの対象として利用。
1980年に入り、様々な課題を設定して楽しんだ『岩場』

自宅から、自転車で10分(全力疾走)徒歩30分で、取り付き
地の利を、生かして整備から開拓を進めた。
『岳人・1985年7月号』 記録速報・掲載情報
『摩天楼』と、呼ばれた岩場は国内に幾つかある。

初期のRCCメンバ−の命名した『六甲山』範囲
の岩場の中でも、発見・開拓されたのは活動期
の初期で、当時は渓谷内から下部の常時、湿った
岩場から続けて、登られていたと聞いている。

2000年、以降でクライマ−の姿を見る事は少ない。
現在は、岩場・終了点・付近も個人住宅の敷地内
であり、クライマ−が自由に気兼ねなく、使用できる
岩場とは、言えなくなっている。
実は『仁川渓谷の岩場』の中では、この『摩天楼』と呼ば
れる「岩場」は、上段と下段、そして「オ−プン・ブック」と
名づけた快適な花崗岩の板状岩と、共に岩質的には最も
硬い花崗岩で、他の渓谷内の岩場よりも、ル−ト内容が
充実していて、私の『お気に入り岩場』の一つ。

当時はクラック攻略の為の、技術的な『課題』に関して
チヨックも含めて、用具と技術・双方に関しての手頃な
練習場所を必要としていたので、『堡塁岩』のケ−ブル
は財布に響き、午後の半日とかの中途半端な時間や
午前の降雨で、午後の数時間しか乾いた岩で遊べない
ボルダリング予定の、代案・場所にも『この岩場』は利用
するのに、すこぶる便利な場所だった。
記録・投稿者「佐藤」 岩場・ル−ト図・作成『舟橋』
1976年・当時は岩場・上に住宅地も無ければ、この岩場自体に登りに来るクライマ−も限られた仲間達だけ。
金属製のストッパ−やヘキセントリックが、使えるまでの数年間は、硬質樹脂で作られた『ブロック・ハ−ケン』と呼ばれていた、単純な台形チヨックも、この岩場で使い始めていた。各種チヨックが入手できる頃には、ここに持ち込んでは使用方法を学んでいて、自作のワイド・クラック用の特殊チヨック等も、この岩場から堡塁岩へ、そして御在所から、そういった順序で練習するのが一つのパタ−ンとなっていた。まだ、トップロ−プを拒否していた時期で、開拓もリ−ドが基本だった。
六甲山・範囲の『岩場・露岩』の中でも、摩天楼・付近の岩場の岩質は風化の影響が少なく。
六甲山には、珍しい花崗岩のワイド・クラックや幾本かの手頃なクラックが走っていて70年代の
後半から、80年代の前半期に私達が求めていた『クラック・クライミング』と『チヨック・プロテクション』
の格好の練習場所だった。渓谷・奥の独立した環境の中にあり、他の岩場から少し離れていて継続
して遊ぶのには、少しばかり不便な位置環境に存在していた事も幸いして、いつも静かな環境だった
トレ−ニング意識。その感じる、感覚を磨くのに最適な
環境を有していた、岩場の一つだった。
私が所属していた『神戸登攀倶楽部』は、文字通りの神戸が
活動・拠点の若手のクライマ−・グル−プだったので、土地柄
歴史経緯からも、国際的な感覚にも、新しいクライミングにも
何一つ、抵抗感や制約の存在していなかった、当時の関西
範囲のクライマ−集団の、中でも自由闊達・そしてフレンドリ−
な仲間達が集う、楽しい活動形態を心情としていて。

海外からの友人達との「六甲山でのクライミング」は多かった。
個人的に私も、他の国からの来訪者とのクライミングを楽しみに
待っている部分も多く、語学や他の障害・障壁に関しての問題
等を、気にするような古い体質を持っていなかったので、機会は
多く、そういった雰囲気は更に、良い機会を増やす効果的・連鎖
で、私の当時のホ−ム・ゲレンデ「仁川渓谷」の中でも、この
特徴的なワイド・クラックや当時の六甲範囲の他の岩場には無い
ラインで、遠来の友人達を苦労させるのは、事の外・楽しかった。
トロ−ル社・製品の『ウイランス・モデル』以前の、このタイプの
シットハ−ネスの原型と言える『ペック』を、私は使用していた。
不動岩や堡塁岩で、実用的な『チヨック技術』
を使えるまでに、私達は『摩天楼の岩場・下』
の、オ−プン・ブックと私が、名づけた小さな
岩場で、繰り返し何度も初期のナット・タイプの
ヘキセン・タイプや当時・最新の変形六角形
正真正銘の『シュィナ−ド・ヘキセン』をクラック
に挟み込んでは、将来のロング・クラックへの
挑戦を『夢見て』いた。

ここでの試行錯誤・嫌になるほどの反復・練習
の成果は、当時の私達が予想していたよりも
十二分に、数年後の私達のクライミングに反映
された。
私達の世代。年齢と言うよりは同じクライミングに関する、スタイルや「視線」が同一方向に向いていた、仲間達は登山靴からクレッタへ。

ビブラム底の『クレッタ・シュ−ズ』から、運動靴へ、そして『EB』に、代表される本格的にフリ−クライミング専用へと、進化した『フラット・ソ−ル・シュ−ズ』へと、技術以前に指向や意識から使用する『フット・ギア』は変化していった。
『堡塁派』の私達、倶楽部メンバ−は主に3本
ラインのジャ−ジ−・パンツに同じく白底スニ−カ−が、クライミング時の標準・装備。

六甲の岩場から『奥鐘や屏風も、明星』も同じ
装備・フアッションで何の問題も感じてはいなかった。登れないのは「装備や用具」の不足では無い事を、充分に理解していたから。
『英国・滞在、中』から、帰国しても私は『チョ−ク』の使用を塾考。使い始めたのは遅かった
『小川山』が、特別に遠い山域・クライミングの場だと思っていた
訳ではなかったし、今で言う『ワイド系のクラック』に対する思い
欲求は、確かに当時の「関西範囲のクライマ−」の中では、特別
に強かったが、まだ『奥鐘・屏風岩』そして、当時の私達が倶楽部
での、課題として通っていた『南アルプスの未登壁』での開拓での
クライミング等にも魅力を感じ、まずは国内で自分達
に不足している「体験・特に山での」本番を意識していた。
それに、当時の私達の世代には『関西範囲』身近な六甲山に、
おいてさえ、まだ・まだ手に余る、困難な『課題は山積み状態』
だったのは、時代の幸運だった様だ。
同時期『六甲山の小さな岩場』と、黒部の大きな『壁』でも、私のクライミング装備や衣服に、大きな違いや意識面での特別な、隔たりは存在していなかった。靴でさえ、黒部川の渡渉から実際の『壁でのクライミング』もボロボロ状態の、三宮の高架下でオバチャン相手に、値切りに関西クライマ−の力量を見せた『運動靴』

当時は、使えるシット・ハ−ネスも少なかったので、カシンの全身タイプの上半身部のテ−プを、取り外して
高校の頃から、使い始めた『国産エバ−ニュ−』の、同じく「全身モデル」を逆に、下だけ取り外して、合体させた改造『シット・ハ−ネス』を、この様な本格的な『岩場』では愛用していた。長い懸垂下降には、普及していた国産「ヒラリカン」は、やぼったいので、SMCのオレンジ・カラ−の、軽合金カラビナに同色のブレ−キ・バ−のセット。それに、更に制動力を増やす為に2個の、デイッセンタ゛−・リングを組み合わせて、快適な使用感覚を得ていた。
清水RCCル−ト下降
『チヨック』でのフリ−クライミングに関して、当時は私達の周辺の
クライマ−の多くには、懐疑的で実際の「山でのクライミング」で
使用する事、自体に批判的でさえ、あった人達は多かった。

『可能性の証明』は、何も奥秩父の「小川山」や伊豆の海岸岩壁
で実証された訳ではなくて、私達が「六甲山」の片隅の小さな岩
で、行っていたクライミングと同じ様に、岡山でも広島でも、そして
静岡でも、同時期に同じ様に「可能性の証明」を自らの実践から
知り得ていたクライマ−は、存在していた。
今で言う「ワイド・クラック』攻略の為の、実証例の存在する技術
や用具を『情報』として知り得ていず、フリ−クション性能に、かなり
の制限と限界のある、運動靴の柔らかい底素材に、勿論チョ−ク
は使用せず、荒い六甲山・特有の『粗粒花崗岩』のクラックから
皮膚や手指を、守る「テ−ピング・テ−プ」等も、存在さえ知らなか
った。多分、滑り止めの「チョ−ク・パウダ−』と、同じく知っていた
としても、当時の私は購入しても、使わなかったと思う。
『RCC時代の大先輩達』の、指先・靴底のナゲ−ルが触れる事
なく、遅れて来た世代に残されていた『岩場』として、この周辺の
岩場は貴重だった。
硬い残雪が豊富で、実際のクライミングでの障害となる「剣岳」や
他の、北アルプスでの登攀・以外では私にはクライミングでの履物
は、この写真の様に『安く、軽い運動靴』の使用が多かった。
(上・写真)は黒部の大きな壁。(下・写真)は仁川渓谷の摩天楼。
着ている衣服や、クライミング・ギアに綿布のザックにも違いはない。
六甲山・範囲で唯一『渓谷』と呼ばれる。周辺は宅地化が急速に進んでいて、かって存在していた高台の古墳近くのボルダ−や、渓谷内の小さな岩場も失われている。震災の被害も渓谷入口・付近に大きな環境変化を及ぼしていて、ル−トが消失している岩場もある。失われたル−トには、震災・以前に突然、巨大な岩板・塊が崩落した場所もあって、今現在も落石と共に岩場が崩れ落ちる可能性の残る場も存在しているので、十分なる注意が必要だ。最上部・渓流の上流に位置する『バットレス』と、この『摩天楼』の岩場は仁川渓谷の岩場の中では、最も岩質も良くて崩落や崩壊の危険性の少ない、安定した岩場と言えるが、一部・注意が必要なフレ−クや、かっては利用できた松の木の痛みなどにも注意して下さい。岩場・上部の住宅の増加に伴ない、住人とのトラブルも一時、多発していて慎重な行動が要求されています
『堡塁岩』と同じく、この仁川渓谷の『摩天楼』と言う名称も現在
のクライマ−には、あまり馴染みの無い名称の一つかも知れない。
『オニヅカ』が、買えないほど金銭的な問題を抱えていても、当時の
私達には、九州の『ツキボシ/月星』製造の、非常に安価な運動靴
や、更に価格の安い『元町・高架下シヨップ』で入手できた、価格が
学生にでも購入できる、靴底が白いシュ−ズが使えた。

『奥鐘西壁』や『明星山・南壁やフランケ』にも、このタイプの運動靴
を履いて行った。倶楽部メンバ−で四季を通じて、何度も開拓に向
かった、南アルプスの未登の岩壁へのアプロ−チでも、林道から
川原に下りて、渓流沿いに岩場まで靴底を小さなビクトリノスの小刃
で、烏賊のサイメ状に切れ込みを加えて、滑り易い渓谷の滑滝や
岩盤も、なんなく通過。
使い捨ての草鞋や、クライミングには役立たず価格も高い渓流足袋
や専用シュ−ズを、使わなくても私達には問題は無かった。

何でも、専用装備や目的別の『用具』を、揃えて使用しないと『夢』や
『目的・希望』が、適わないと最初から思い込んでいる風潮を疑わな
い、最近の登山者やコマ−シャルを信じ過ぎる人達が増えている今
よりも、個人的には、この頃の創意工夫に自分達の、持てる範囲で
『夢を達成』しようとしていた、時期の感覚は好きだ。

仁川渓谷の岩場での、長いクライミング期間を私は、この安物の底
が白い『元町・高架下』で買って来た運動靴で、楽しんだ。
最も、安価な物は380円・ぐらいの価格だった。
上部の岩場は、六甲山にしては未風化の硬い花崗岩なのに
下部の、渓谷付近は染み出しも多くて、少し整備の手を休め
ると、植物が生い茂り、コケにも覆われてしまう。
岩質も悪くて、快適に上部の岩場に継続して使用する環境
では、ないが以前には頻繁に渓谷から続けて登っていた。

(右・写真)は、私がラッペルしながら壁を清掃、整備していた
頃の下部壁。日が差し込み、意外と快適に使用できていた。
現在では入手が困難だと聞いている『関西の岩場』にも、この『仁川渓谷の岩場』を、担当・執筆している。
『関西の岩場』情報・公開、以前にも『山と渓谷』『クライミング・ジャ−ナル』にも、岩場ル−ト・ガイドを私は依頼・投稿していて、それらの情報の中には『故・黒川君』と共同で執筆した公開・情報も含まれていた。
『摩天楼の岩場』に関しては、最上部の岩場・終了点が現在では私有地であり、かってのようにクライマ−が自由に行動出来る場所ではなくなったので、私は基本的に、この岩場では終了点に抜け出る事を極力・避けて活動するようにしている。終了点の残置支点に関しても、80年代から手を加えていない。

私達が最も、精力的に『この岩場で、活動』していた時期にはクライミング時の致命的だと見られる『事故』は
この岩場では起きていなかったと思うが、1995年・以降から数件の私には理解不能な『事故』が発生。
この事故により、周辺住民に『クライミング』に関しての、誤った誤解・意識が出る事を危惧している。以前は、数件の家屋だった丘陵範囲は、『保護された古墳』以外は、広い『新興住宅地』に変貌している。以前とは全く違う環境だ。岩場での『事故・発生時』を想定して、住宅地の位置・住所も確認しておくと良いだろう。
万一の為の『クライマ−』としての予備・対応策である。

どこの『クライミング・エリア』でも同様に、岩場からの緊急・搬送や救急車両の要請、救助場所の正確な現住所や『地名』も知らずに『遊ぶ』のは問題外の行為。場所を通報できなければと、考えれば理解できるでしょ。

最も初期に『摩天楼』周辺で活動していたクライマ−が、誰なのかを知る術は今は無いが、オ−プン・ブックにて
最初のフリ−クライミングの課題を発見した頃に、左端に古いタイプの笹型ピトン等を見つけていたし、上部壁
には、それほど古い物とは思えないリング・ボルトも数多く残置されていた。
2008年からネット情報の中で、この岩場に関しての記述も見受けられる。
渓谷内からのアプロ−チは以前は下降路としても利用していた、潅木帯の急傾斜、一部に小さな岩場の通過もあったが比較的、容易で使い易かった踏み跡も徐々に見つけ難くなっていると聞く。最下段の岩場も今ではクライミングの場として使われることは無いだろう。岩場・終了点に車道から接近するのは、住宅の存在から今は不可能な状況で、気楽に立寄れる場所の岩場では無くなった。