『岳人』 この雑誌から、国内初の『クライミング・インストラクタ-』活動が紹介された
穂高から、東京に出て。プロガイド修業・期間に鍛えられた
登山・専門雑誌での技術・情報の執筆と各種『特集・号、企画・参加』
様々な、先輩たちや同時期の関係者との、得難い『対談』から、プロ
ガイド活動の広報・アピ−ルの機会を拡大。
『穂高岳・涸沢圏谷』の、長期にキャンプ・ベ−スを設けるのには
生活環境としては、あの不正地・ゴロタ石の環境がお世辞にも良い
とは、言えなかったキャンプ指定地。
残雪を踏みしめ、上高地からのトリプル歩荷(ボッカ)で、最短でも
3日間の重荷から、開放されてカ−ルに登りつめると、いつも毎回
素晴らしい日々への、期待と希望に、重荷だけでなく心の開放感を
全身に感じていた。

出来れば、誰にも目立たず、己の望む山への想いやクライミング
技術と知識の、練磨・弱さを克服する為の現場「岩壁」での経験を
積み上げて、神戸という土地で本格的な『クライミング・スク−ル』
活動を開始する事を、初期には夢見ていた。

当時、一人ガイドを表明する人は神戸にも存在していた。
大阪にも一人。しかし、私以外から見ても、その人達が正業として
まっとうに登山・クライミング専業で暮らしているとは思えなかったし
ガイドが本業と言う、概念そのものが他の登山者やクライマ−から
認識、理解されていなかった。
他に、職業や収入の道を持っているか、家族が゜何かの商売で生計
を保っていて、本人達は副業的に『登山専門店』での、社員や臨時
雇いの合間に「山のガイド」と、いった形式が、妥当もしくは普通だと
思いたかった人達は多い。
現在ならば、フリ−タ−と呼ばれる、社会認識の中で特別に奇異な
視線と、狭い山の世界の中での偏見に満ち溢れた無理解から逃げ
切れたと思う。

『嫉妬』に、限りなく似た、感情や自分達が望み、憧れている自由を
自力で保持している、私の山での生活や北アルプス範囲での活動
から、広がり続けていた交流・交友の世界。そして素晴らしい同時代
の先鋭的なクライミングの実践者を、先輩・理解者の一人として知る
私への、何故・おまえだけが・そういった複雑な感情を持って六甲山
に、戻っている時の私を見る目は多かった。

反感を充分に、かってしまう個性を持ち合わせていた訳では、決して
なかった。人並み外れた、臆病な性格。慎重で塾考して動く基本的
な資質。時として、豪快だと勘違いされる、資質は決断の早さから
引き起こされ、それは若さゆえの思慮の無さにも、つながっていた。

確かに、幼少期からの『組織の中での反抗的』性質や、既存の世界
への、限りない疑問の追及や親を含めた、大人への抵抗感と共に
反抗・抵抗、意識は、いつの世代も他の仲間達や友人達よりも強く
今いる『世界』からの、脱出・願望は人一倍・強かったのは確か。
当時としては、少しばかり出遅れた世代の挑発的な長髪、に顔面を
隠すほどの髭。ヒッピ−文化に、一切・触発された記憶はないし、少し
遅れて来た世代の、私達には『学生運動』は、とうに過去の事件。
社会への反抗を、政治に求めるほどの知性は持ち合わせていなか
った。同時代の仲間には、大学への入学と同時に『真砂沢』の露営地
からの出発時から、岩場でのクライミングに所属を明確に、表明する
セクト・カラ−のヘルメットを誇らしげに被っている者も、いた。

私は、機能で選んだ『グラス・ファイバ-製品』のクライマ-仕様の物を
使っていたのは、言うまでもない。

キャンブ゜地への下降で、豊富な雪渓・斜面をグリップ性能も殆ど無い
地下足袋・履きの、中学校の同級生が「大学・山岳部」の一員として
ヨロヨロと、コケながら下りつくのを見ていた。

貰い物の高価な、スイス・ブランドの当時の、私の環境では購入・使用
は、傍目の大人達から見れば分不相応。その、価値を充分に知って
いる私自身が源次郎・中での固い雪面に、ハンマ−打撃で、その
「山男の魂」とも、当時・呼ばれていた高級・貴重品をガンガンと叩き
込んでいる時の、お節介な登山者達の非難や文句。
相棒の命と、たかが゜「物」との比較は当時でも信じられない。

この国の『遊びは、どこか歪だ』その頃から、体験的に知る。
8歳からの冬季・家からの脱出?家出・体験を持っている私には
ビバ−クの意味する事を、子供の頃から身を持って知っている。

テント(天幕)を、やっと購入して使用できた時の喜びは
誰にも、理解出来ない人生最大の出来事であり、開放される
チャンスを手に入れた脱獄囚の心境。

自転車とケロシン・バ−ナ−そして天幕さえ持てば、地の果て
日本からさえ、出て行けると、子供は信じる事が出来た。
現実は、西日本から少しばかり足を延ばした所で、意外な結果で
『夢破れ』敗退。最初の現実の直視だった。
小学校4年から、まるで当時のWV部タイプの悪い、部分を移植したかのようなBS活動で毎週の様に
キャンプ生活が続いたので、中学生になった頃には、一人で近所の山でテントなしのシ−ト掛け野営や
ビバ−クもどきのキャンプは、得意になっていた。用具は当時、団装備と呼ばれる物を倉庫から、ある
程度は自由に使用できたので、子供が買えない鉈や三角テントにスコップや飯盒まで、手軽な一人
キャンプの実行には、ほとんど不便もなかった。
当時、何故だか?1年間だけ普通のBS所属のまま、国内では西宮市に試験的に創設されたシ−スカウト、の活動に加わったが期待していたような、本格的な『海での活動』も、無いまま毎週の課題は単調で、面白味の少ない大勢の子供達と漕ぐ『カッタ−操船』これも又、何か軍隊式スパルタやWV部
にも似た、集団的な行動を、強制されるだけの活動で、すっかり意欲も興味も失ってしまった。

子供でも、完全に安全な活動ならば集団・組織行動が延々と続けば好奇心は、おろか微かな冒険心や好奇心も満足できない、活動に嫌気が差すのも当然。この頃から、活動形式は軍隊スタイルなのに意識面は、やたら大人が子供を保護する。危険性から、いかに遠ざけるか、そういった過保護・感覚の増大時期に入り始めた頃だった。何が『本邦初の本格的なシ−スカウト活動』なのかも判らず、1年間のオ−ル操作と、海図読みや机上講座にホイッスルの音だけが、記憶に残りヨット・ハ−バ−から、逃げ出した。思えば、山でのキャンプで゜、覚えた自由に開放感に比べて、何と不自由で『夢』の無い、拘束された活動だったのか、案の定と言うか、その本邦初の活動は、知らぬ間にBS界から消えていた。
『ハンディ・スカウト』の、活動といい日本では何かBS活動は、不透明のようだ。

淡路島か、どこかでの伴走船に挟まれ安心・安全だった、海洋での本格的な遊泳が最もハ−ドで楽しかった記憶。同時、進行形での本来のBS活動での山が無かったら・・・あの、頃に・もし本格的で正しい、海洋民族の系統を、学べて『シ−カヤック』に出会えていたら、きっと私の人生は、山から海に代わって、いたかも知れない。  確かに、腕力は鍛えられた・・・
『山用のテント』に、人よりも早く興味を持つきっかけは、少し書いた『現状からの逃避』に必要不可欠な
用具だったからで、小学生の頃から、風雨から身を守れて、自由に移動できる自分だけの『家』を持てる自由な感覚が、大好きだった。後年テントを『ソフト・ハウス』と呼ぶ、意識にはシンパシィ−を感じた。
山歩き、キャンプから登山へ、そして本格的な山への『憧れ』から山の世界への『夢』へ、更に遠く
そしてクライミングへ、あまりにも遅く、鈍い、そして慎重すぎる時間と過程を経てから私は自分の望む
世界を垣間見る、チャンスを間接的に『テント』を使うことから、覚えたようだ。

雨が降れば、染み出す軍隊色の綿布記事の木製ポ−ルに、ペグで組み立てる、三角テントの中で顔に
当る、布面に新聞紙を張って、雨中の水路掘りは日常茶飯事の作業。濡れた、テント本体の撤収後の
歩荷・担当は苦行に等しく、確実に乾燥状態の5倍は重くなっていた。木製のペグは鉈や鎌で、削り直し、テントとスコップは、まるで中の良い兄弟なみに持ち運びには一緒だった。

当時の事を、思い返せば『今のテント』は、まるで天使の羽・守護ハウスごとき存在だと言える。
私と『登山用テント』との出会いは、初期タイプ
の、三角モデルから始まり最も初期の家型に
カマボコ型へと、時代と共に使うタイプは変化。

神戸登攀倶楽部への所属・時期から縁があり
縫製技術と斬新なアイデアで、テントの神様
天才と呼んで、差し支えない『トモミツ製縫』の
友光氏から、好意的な恩恵を受けて使える
各種テントを、当時・国内でも数少ない最も
恵まれた環境を手に入れていたのが幸いした。
使いたい物を、創ってくれる職人さんとの出会い
このサイトの中の、写真で紹介している各種
テント等は、天才的なテント制作者・職人として
の「トモミツ氏」の、作り出した数々のテント類の
本当に、僅かな資料と言える。

大阪万博のモントリオ−ル館を一目見て、それを
ヒントに、現在・一般に言われる『吊り下げ式』
自立型フレ−ム・ド−ム・テントのオリジナルを
自力で考案・作成してしまう、そういった斬新な
思考力とアイデアの宝庫を持った、職人が神戸
に、いた事を知る登山者は、いまは少ない。
テントのみならず、当時の俗に関西のクライマ−
に、名前が知られていた『ズボラ・ザック』等は
2006年、現在から考察しても単純な雨蓋方式
ザックとは、基本コンセプトが違う、ロ−ル・アップ
方式を、いち早く採用した素晴らしいデザイン。
それを時代の中で、神戸・関西の登山者は理解
評価している部分は、あまりにも少なく、価値を
低く見過ぎていたとしか言えない。

私も当時は、存在さえ知られていなかった岩壁
用の『特殊なホ−ル・バック』や『ビバ−ク装備』
も相談しながら、幾つも創って貰っていた。
主に各種テント』に当時の、私に必要だった特殊
なザックや冬季登攀で、積極的に使用した様々な
装備と、それらの修理や改良。
当時の関東クライマ−勢の使い始めてた、海外
ブランドや、ようやく作り始められた国産タイプと
比較しても遜色は感じられなかった。
企画に、御誘い頂いたのは光栄だったが、しかし内容・特に私の発言の文字(関西弁)表記は最低。ひどい誤解を受けてしまった。これだから東京中心でしか、物事や常識を考えられない東偏狭・編集者は困る
視野が狭いだけではなくて、地域・蔑視が見えている。
80年代に、穂高範囲でのバリエ−ション・ル−ト
のガイド・レポ−トや、当時の『夏山・別冊』
その他の、企画で特集記事にも幾つも私は
紙面に、出さして貰ったが。

その雑誌類は、今は私の手元に無い。
たまに親切な講習生達が、バック・ナンバ−を
見つけては、私に届けてくれる情報程度だ。
注釈=当時の私は、個人的にはOCSメンバ−と交流があり、共にクライミングを楽しむ時間は多かったが
その時間の多くは、私が彼らに情報を教えて、私のガイド業務の合間や、講習エリアの下見や開拓といった的での、好意的な誘いでの活動で、私が彼らの『OCSメンバ−』として、活動していた訳ではない。
彼らが、発行した『小冊子』の。ネ−ミングも私からの、提供アイデアだし、この小豆島の記録も、私が彼らのグル−プ構成メンバ−だと、受け取られる記述が書かれているが、それは間違い。
当時の「ダンロップ・テント」に関してのクレ−ムや登山者としての、意見などは削除
消費者・側からの情報が欲しい『メ−カ−名称』は削除。やっぱりね
長期と言う期間が、普通は、どの程度の日数を指すのかは判らないが、常識的な範囲から考えても私の
実行・実践していた登山・クライミング「旅」の傾向は、社会人・感覚からは理解し難く、かつ深層心理的に
反面、馬鹿にしていてながら羨ましい『形式・スタイル』だった事は、正直な人達からの言葉で知っていた。
10代の後半ならば、一生『旅を続けて』行ければ良いのにと本気で思っていた。帰国が失敗だった事は
学業にも当時の、社会生活にも適応したくなかった私自身が、一番よく知っていた事だった。
生きて行く為には、「山は遠く」そして通う場所である必要を理解した頃だ。
『山小屋・就労』といった手段と選択肢が、無かった訳ではなかったがシュィナ−ドの指摘を待つまでも無く
『バレ−メンタリティ−(シャモニ−を例としている)の偏狭な地域・偏重・愛』に、なる事は若造にでも予測が付いていたので、選択から除外していた。第一、、若い時から一つの『地域や山』に固定されて生活していては次ぎの『夢』への、助走も熱意も継続できるのかが、我ながら不安で仕方なかったからだ。
安楽な『場所』に、いると何も苦労と寒気・生命の危険が存在する快適とは程遠い『世界』は遠く、意識が徐々に薄く、希望や夢の輪郭もぼやけてしまうのが、とても恐かった。

社会生活・常識との『兼ね合い』を熱心に薦めるのが大人の役目とばかりに『六甲駅』や三宮の、当時のクライマ−の溜まり場であった『喫茶店』では、何人もの自称・大人達から・くどく・しつこい説教を頂戴していた。その種類の『人種』は、不思議な事に標高が高くなる『場所』に移動、登るほどに減少していく。
穂高で、訳知り顔に、私に『社会は』と、説教する人は存在しなかった。
登山『専門雑誌』に、記録の短信・等と違って紙面・特集
に写真入で取り上げられたり、自分の書いた記事や意見
が取り上げられて、ある意味での『自己主張』と職業範囲
での『広報』が、広く知られると、それまでは六甲山に帰っ
ていた時に、あからさまに私への軽視・職業に対する反感
を含めて、無視していた様なタイプの人達・ほどが豹変
その言葉どおりに態度を変えて、私に話しかけたり連絡を
取って来る減少が、事の他・面白く。かつ不愉快だった。

たかが『雑誌』に写真が出たり、地域の狭い範囲での情報
を提供する程度の、事ならば『登山体系』も含めて、他の
情報に私は、それまで以前にも度々・頻繁と呼べる頻度で
出ていたからだ。

年間の『連載』が出始めた頃には、そういった変化の内容
は少し代わっていて、その辺りの人の意識の簡単な変化
は、最も疑わしい種類のものだと理解できていた。
『弱い羊の習性』が、如くに『弱いクライマ−』程に
群れたがると感じていた。
山の世界にも『権威的』な事柄に、左右され、態度を豹変
させる者達は、予想以上に多い。