瀬戸内海『小豆島』
橘港『拇岳の岩場』
神戸のクライマ−には『小豆島・拇岳の岩場』は、意外と近い。私達の世代も、『六甲山』から、次に視線を向ける位置に存在していて、鈴鹿の『藤内壁』と共に北アルプスの本格的な挑戦に向う、前段階のクライミング練習
の「場」として、早くから瀬戸内の「海を渡って」のクライミングは興味深く、早く体験したいと望んでいた岩場の一つだった。この「特徴的な外観を持つ、海に近い岩場」は、古くから関西範囲(特に大阪)中国地方、当然ながら、位置的にも最も近い「四国」の登山者、クライマ−から利用されて来たが、先鞭・初登の栄誉は、地元・四国範囲からのクライマ−ではなく、大阪からの意欲的な先輩達がピ−クに立った。当時の記録は「岳人」に詳しく記録として公表され、初登時には『眼下の集落』の人達が、火の見・櫓の「鐘」を鳴らしてくれたそうだ。
(退色した紙が、そろそろ古書の風格を醸し出している、記録が執筆された『岳人』を私は保管している)

岩は「六甲山」等に見られる「花崗岩」と同じなのだが、岩場の形状は大きく異なり。多くのクライマ−の登攀意欲を強く、刺激し挑戦を誘う『岩峰状・岩壁』で、節理が多く発達し、まるで海外の岩場を連想さすが如くの、快適な平坦レッジやテラスを、ル−ト上に配置して、眼下に広がる『海』の素晴らしい、景観と共に、この岩場を好むクライマ−は多かった。
この「岩場の紹介者」は、登山体系に詳細な記述で紹介文を、書いた『山本譲・氏』発刊・当時に、これ以上の詳細・情報は存在していなかった。『関西の岩場』執筆も、同氏が当然ながら担当されていた。
82年。最も、初期の私達の『フリ−化の挑戦』は、核心部の潮風と風雨に、さらされて腐食し老朽化の進んでいた
エイド・ピッチの「残置支点」類の、あまりの悪さに耐え
れず、敗退。

当時は、試登の為のトップロ−プ・リハ−サルや
フリ−化の為に、新たに自分達で既成ル−ト上にチヨック
以外の人工的な「プロテクション」を設置する事・自体に強
い抵抗感とスタイル面での、拒否感が残っていたので
ボルトも持参しなかったので、敗退は、怪我をせずに下降
する唯一の選択肢。

時期的には、この岩場が「小川山」等の、他の新しく知られ
だした「フリ−クライミング」の岩場の開拓、紹介により少し
づつ訪れるクライマ−が減り出した頃なので、この時の私達
の『記録』が、雑誌で特集として出るまでは支点類は、かなり悪かった。翌年に、再訪すると残置ボルトやピトンも増加していた。
さすが「専門・雑誌」影響は大きい。

(右・写真)fは、拇岳の正面壁。この壁で最も登攀者が当時は多かった「ダイレクト・ル−ト」3P目・核心の凹角をリ−ドする私を確保者の林君が撮影したもの。数手の動作で問題が解決、その箇所のプロテクションが最悪・状態。

エイド・ル−トとして、この時・以前に私は高校生の頃から
何度も、このル−トを登っていたので初挑戦の林君からの
希望で、まずはフリ−化は、このラインだと考えてトライ。
1P目と2P目は、かなり前から良いスタイルで登れていた。
私の「記憶の中」では最初に、この『正面壁ダイレクト・ル−ト』を登った、高校2年の時には下部・取り付きからの特徴的な「チム−ニ−内」に、残されていたピトンは2本。クラックに挟まったチヨック・スト−ンを利用した支点を頼りに、当時は慣れていなかったインサイド・クライミングを楽しんだ。

その後、他のル−トも含めて急激に「初登」時に、使用された残置物に付け加えられて、行く各種・支点が増加。クライマ−意外は、絶対に立ち入れない岩壁内の「テラス」等にも、落書き、岩を削った痕跡さえ増えていた。(下・写真)は83年「岳人」に、同伴者の林君が『吉田の岩場』と、共に記録を、書いた時の「チムニ−」でのクライミング。
『拇岳/おやゆび・だけ』と称される、この瀬戸内を代表する岩場は見る位置や角度で様々に雰囲気を変える。古くから、古刹巡りの一箇所として、他府県からの来訪者が通過する集落と近い位置にあり、この特異な形状の岩場は、人の目を引き付けていた。初登時から、壁直下の漁港では漁師さん達の海からの自然の灯台として、愛着を持って見られていた岩場なのでクライマ−の出現は、かなりインパクトの強い出来事だったと言われている。

クライマ−達がピ−クに到達した時に、集落の人達が壁を見上げて、火の見櫓の鐘を鳴らしてくれたという逸話は、とても面白い。日本のクライミング史の中でも、かなり特殊な話題の一つだと思われる。そういった経緯があってか、この岩場のベ−スともなっている『御堂』は、長くクライマ−の利用に使われていて、その使用も地域から寛容な目で見られていて、僅かな謝礼と使用後の清掃で長年に渡ってクライマ−に、得難い恩恵を与えてくれている。

70年代からクライマ−用の記入ノ−トが置かれていたのだが、いつも常備されていた訳ではなくて、何者かが、持ち帰ってしまうのか?ノ−トを見ないことが多く成り出した。初期の記入ノ−トが、誰の手に残っているのか、保管されていれば良いのだが。

大阪・弁天埠頭からの小豆島・航路の往復フェリ−運賃さえも、捻出に苦労していた高校生の頃には、私達にとっては『拇岳』でのクライミングは、かなりの遠出・フェリ−乗り場からのバス運賃も節約して深夜の海岸道路を『御堂』目指して、よく歩いたものだ。当時は漁港・埠頭から少し歩くと、外灯も無くなって峠を越える辺りは、月が出ていない時など文字通り真っ暗、通過する車も殆ど無くて、食料の補給など夜間には不可能な地域だった。

それでも、この岩場には雨露をしのげて、トイレと水道が利用できて、快適で乾いた板の間で眠る事が出来る環境が保障されていたので、テント泊の様な嵩張る装備を持ち込まなくても、快適な生活環境を享受でき、クライミングに専念できて私には当時、最も楽なクライミングの為の『道場・的』な場所として、有りがたかった。

特に、今現在は封鎖されてしまったが左右の、板の間の両方には小さいながらも『囲炉裏』が設置されていて、裏山から薪を拾ってくれば寒い夜の暖にも、食事の為の利用にも使えてコンロ類の燃料の必要も無ければ、焚き火・感覚の楽しさも味わえて、格好のクライミング環境として、再訪が毎回とても楽しみな岩場の一つとなっていた。この『囲炉裏』も、某クライマ−の不注意で引き起こされた、火事騒ぎの後に、寄進者や地域の人達からの不安をかって、要するにクライマ−は、信用できそうに無いという事で、修復時に封鎖されてしまって、二度と使えなくなってしまった。

この時に、真摯な謝罪と共にクライマ−側が、何かしらの費用を差し出せていれば、失った信用の幾分かは取り戻せたのにと、思ってしまう。幸いな事は『御堂』をクライマ−が、就寝目的・休息の場として使用する事を認めてくれたことで、使用禁止とはならなかったのは幸いな事だった。

段々畑が放置された、神社に向う急な階段横のオバチャン家に、挨拶に行って、水道の鉤を預かるのが、その頃のクライマ−の常識だったが、この方には多くのクライマ−が親切にされた。私も年配の同伴者を風呂に入れて貰ったり、寒い夜の為の差し入れなども頂いて、懇意にさせて頂いていた。

寝坊したクライマ−が、早朝に御参りに上がって来た近在の老人達に、起こされて説教後に仲良くなって自宅に招かれて、食事を御馳走になって帰って来るなど、当時のクライミング環境としては理想的?貧乏な若いクライマ−には、天国的なクライミングの場所としても、私達は感謝して使っていた。
クライミングを終えて『御堂』に、戻って来ると板の間に張ったツエルト前に、ミカンや鯵の干物が、差し入れとして置かれていたり、使用後に挨拶に廻ると、小豆島・土産を頂いたりと70年代は、いたってノドカでフレンドリ−な雰囲気が残されていた地域だった。
そういった恩恵を私達クライマ−は、形としても地元に還元できず、礼を失した時期が長かったようだ。