クライミング・ガイド・ブック『関西の岩場』で、この『仁川渓谷の岩場』
を、担当・執筆した時に『三段岩』でも、それぞれ固有のル−ト名称
が、付けられていないル−トが多い事に、気が付いていた。

(右・写真)の三段岩の特徴的なカンテ状・部分の左・裏側に位置
し、完全に前傾壁として「エイド・クライミング』当時は、人工登攀と
呼ばれた積極的な『用具』の使用で、突破する、この壁の既存ル−ト
名称も、長年に渡って通い続け、この岩場のル−トで知らない事は
無いと、思っていた私にも情報は無かった。

過去から。フリ−クライミング主体の『ル−ト』には、個性的で何か
しら、開拓時のクライマ−の思想や歴史的な背景、そういった特有
の「ル−ト名称」の中に、単なる作業的な行為、以上のメッセ−ジ
を感じる場合は多いのだが、『鉄の時代の申し子達』の作った作品
には、思潮的・浪漫の香りを嗅ぎ取る機会は、かなり少ない。

登攀者の名前や、所属の組織「山岳会・名」とかの、断片情報の
一つでも、残っていると『謎解き』にも力を込めれるのだが、この岩
に連打された『金属片』だけでは、歴史は読み解けなかった。

(右・写真)は、一般的に『三段岩・カンテ裏ル−ト』と70年代・前半
に呼ばれていた、当時の「六甲山・範囲の岩場」の中でも、蝙蝠谷
のエイド・ル−トと同じく、クライマ−のエイド技術・向上には壁の傾斜
が、全体に「前傾」していて休み難い為に、利用者の多かったル−ト。

60年代の後半から、70年代に入り始めた頃に『クイックドロ−スリング』の使用は、知られていなかった。
殆どのクライマ−が、ようやく鉄ビナから軽合金タイプのカラビナ使用に移行し始めた頃で、国産品の使用者も多かった。
『アブミ』はプレ−ト・タイプの3段ステップの物が多く。まだ当時は品数
も少なく、使用している人も殆ど見なかった『テ−プ』での自作アブミを
岩場で見ることも無かった。
16歳の頃に、無謀・無知と批判される事は無かった。
ソロクライミングは例外的で、他のクライミングを行いに
来る、他の大人達は私に意見やアドバイスする能力や
この種の、変ったクライミング・スタイルにコメントできる
だけの経験を持っていなかった。

確かに、今なら『この右・写真』を見れば我ながら無茶
を通り越して、かなり馬鹿なクライミングで命を粗末に
していると思えるが。この当時は真剣だった事だけは
確か。ロ−プ確保も使用せず、2本のアブミに連結した
テ−プ・スリングに確保の全てを委ねている。
こんな方法で、壁を登る事自体が『危険』なのだが

この写真の頃には、残置ボルト等の強度などを知る術
も、教えてくれるような人も、周囲には誰一人・存在して
いなかった。
仁川渓谷の『三段岩』は、私にとっては小学校5年生の
頃から、まじかにクライミングを見て・現実のクライミング
を知った原初的な『岩場』の、一つ。

『草1本』岩場には生えていなかった頃。
毎週・休日ともなれば大勢の登山者やクライマ−が
この岩場や、少し下段に位置する『ム−ン・ライト』下に
集まっていて、川原や「ム−ンライト上の台地」には露営
テントを張って、一夜を過ごす人達も多かった。

そういった年上の登山者の中には、私達には知り得ない
時代の、この渓谷の岩場で青春期の『山への夢』を見て
昭和初期の海外登山やクライミングの経験を、持ち、過去
のRCC時代から、引き継がれたばかりの岩場の歴史を
私の様な、当時は子供にも教えてくれる先輩達も僅かに
岩場下で、お会い出来る環境だった。
六甲山の岩場『仁川渓谷』  ム−ン・ライト
    三段岩
(下・写真)1984年・舟橋が撮影『仁川渓谷・三段岩』
『ホ−ム・ゲレンデ』としての愛着も含めて、当時は新しい可能性や課題が身近な、この小さな岩場では
手に入り易かったので、整備も頻繁に行っていた。少し草が生え出せば労苦を厭わずに、セッセットと通っては引き抜き、壁下のゴミも徹底的に清掃し、崩れかけた土砂を石を川原から運び上げて補修したり倒木を切り刻んで、運び降ろしたり。川原の水の中まで空き缶から、流れて来た自転車まで苦にもならずら、かたずけていた。多分?1987年ごろには、私の勝手な清掃作業も効果が見えていて、草付なども殆ど無くて、かなり岩場としての外観は、すっきりとしていたと思われる。現在では、岩場・全体が何か暗くて時として『クラックが緑の線』にしか、見えないような時期もある。岩場・下の流出・土砂を食い止める為に運び上げて整地していた箇所も、今では見る影も無く、アプロ−チの斜道範囲にも土砂が流出していて、荒れ始めているようだ。仲間達と愛着を持って、少しばかり岩場・環境に手を加えていた頃とは違うので、ル−ト上の危ない浮いた岩とか、潅木や草付きの除去や整備は行われてはいないと思われる。自宅から近かったという理由もあったが、やはりホ−ム・ゲレンデ的に大切に感じて、使用していた頃には同じ様な感覚や意識を持ったクライマ−も、小数ながら集まり協力していたが、そういった雰囲気は残ってるようにも見えないのは、個人的に残念。機会を作って、少し清掃ぐらいの労力は、この岩場に返そうとは考えている。

そういった努力・お節介で、この当時の『壁』は、いつもスッキリ・クラックの乾きも早くて環境的にも良くなっていた。今では、この壁や周辺は、誰も手入れも清掃の手も加えない・・・

昔から、地元『大学』の学生たちが長く、先輩から後輩へと練習場所として使用している場所なのだが
あまり愛着心や、地元岩場としての意識も無いのか・・・少し、勿体無いと思う。
アイゼン使用でのクライミングもドライ・テクニックの練習に使われても、個人的に岩場の破壊とか、モラル
の低下などと私は、批判する気は毛頭無い。チッピングは例外なのだが、この岩場を『ハイ・ボルダ−』と
意識してクライミングしようが、トップ・ロ−プで遊ぼうが、その使い方や登り方に何か、限定や制約を設ける
必要を感じていない。クライマ−の良識や、モラル意識に期待したいと考えるしか無いだろう。

約10本・それぞれ交差しないラインを選択できる。短い、小さな『壁』だが、それぞれに昔からクライマ−は
工夫して、創造性・豊かに活用・使用していた。
2001年に、あまりに「ひどい」残ボルト類が増え出したのと、岩場・終了点の立木が待つ食い虫被害に耐えられず、想い出の多かった確保支点に使えていた、3本の『松の木』も失い、何本か長期間の使用に耐えれる『ケミカル・アンカ−』を設置した。
小さな渓谷内の、小さな岩場なのだがクライミングの練習場所としては、条件的に優れた場所と言える。まず、最寄の交通機関・阪急電鉄『仁川駅』から、徒歩・約20分とアプロ−チが近くて、岩場まで初めてでも、迷う心配が無いので、六甲山の岩場の中でも気楽に練習に来れる。震災後に近くに建設された『地滑り記念館』を利用する事が可能なので、特に女性がクライミング練習時に、トイレの問題でも、少し安心出来るのもトレ−ニング環境としては得難い。緊急時に車道が近いと言うのも安心感があって、講習実施場所としてはスケ−ル的な不足があっても、利用価値は高い。
『ム−ン・ライト・ロック』の終了点は、平で安定した台地となっているので、以前は学生たちがテントを張って合宿スタイルでクライミングの練習に利用したりしていたが、最近では、この岩場上でキャンプする人を殆ど見ない。『三段岩』は古い形式の、素掘りタイプの石切り場・跡なので人工的な岩場・形状が見られる箇所も多く、発破穴か砕石痕か、貫通した穴なども見受ける。この岩場の上部は昭和初期から、徐々に風化の影響を受けだして、土砂の流出が止まらなくなっていた。現在は住宅・造成地の影響で、更に不安定化しているので注意が必要。昭和初期から残されていた、電柱用の鉄杭も今では、かなり危ない状態だ。
60年代から、70年代の後半時期までこの岩場には草付や潅木が邪魔だと見えていた事は無かった。植生が発達し出したのは、やはりクライマ−が整備の手や清掃作業の労力を、放棄したからだろう。

最近では、完全に個人の占有物と考えているのか、自家製でペグに溶接した怪しい『ピトン・モドキ』の金具等を何も考えずに残置していくクライマ−も、存在している。
『下・写真2008年5月』に撮影、数年ぶりに三段岩を登りに来て変化に驚いた。
以前から『終了点、付近』の状態の悪化には危険を感じていたが、現在ではル−ト上の上部付近にも、明らかな危険性が見られるようになって来た。植生、草の生長は、誰も整備の手を加えなくなった岩場の宿命なのか、これ程に密生し出している岩場も少ない。残置支点の腐食や老朽化は、岩質を考慮すれば新たな設置も困難だろうから、利用者には充分な注意が要求される。個人的には、クライミング対象として、考えない方が良くなった『古い岩場』ル−トもあるので、使用を人には薦めたくない。

『三段岩』陰ル−トの右カンテ側に設定されていた『フリ−・ル−ト』は、2008年に再訪した時に残置されていた筈の『ハンガ−・ボルト』が、取り付きの1本を除いて回収されているように見えた。この陰側?を最近では、登った事がないのでル−トの内容が、どのように変化しているのかは判らないが、正面壁に私が80年代に設置した『ハンガ−・ボルト』も、数本が無くなっていた。個人的に、少し寂しい気分ではある。