高校2年の冬休み、単独で挑んだ【北壁】
は、完全に装備不足で岩壁に触れて帰る
程度の成果しか残せなかった。

翌年は、衣類以外のクライミングに必要な
用具や登山靴にアイゼンも揃えられて、再
挑戦で、湿雪の吹雪く稜線へ抜け出た。

『雑誌』に記録を出したのは、それから数年
海外での長期・放浪を終えて帰国して再び
北壁に戻ってから。

76年から78年は、耐寒・耐食トレ−ニング
目的で、いつもの様に一人で雪が吹き込む
『元谷の避難小屋』に5泊6日の日程を毎冬
工面しては、登攀装備を担ぎ上げて、毎日
壁に取り組んだ。

そういった時期に、時折「店」で知り合った
大阪周辺の、同世代のクライマ−と組んで
壁に入る事もあったが、それは滅多に無い
機会で、記憶の中には一人で『壁』の中に
いた事しか残っていない。

数少ない、ロ−プを結んだ相手は当時
大阪の『紫岳会』に、所属したばかりのO君
や、広島の山の会に所属していて、冬季に
近くのスキ−場で働いていたM君。

神戸の仲間は、結局は私が通っていた期間
に、この壁で共にロ−プを結ぶ機会は得られ
なかった。
この頃に「壁で出会った」のは、関西の顔見
知りのクライマ−では無く。遠く、九州から
やって来た若いクライマ−達で、交友を持て
たのも、関西のクライマ−以外だった。

とにかく、冬季に、この壁の中で偶然に
出会うクライマ−の数は極端に少なく。
眼下の賑やかなスキ−場が、近くなのに
いつも隔絶した、静かで孤独な環境を堪能
していた。
俗に、関西範囲のクライマ−には『冬季クライミング・ゲレンデ』と認識されている、この日本海・気象を直に受ける『北壁』は、ゲレンデと言う名称と評判とは違って、私は本格的な冬の壁だと思っていた。
今でも、当時の『写真』を見ると、まともな冬山・衣類や必要量のギアも持たずに毎冬・通い込んでいた情熱を懐かしく思い返せる。オ−バ−パンツ等、その辺りのバ−ゲン品のペラペラなウォ−ム・アップ用だし、替え手袋も自分で傘やテントの、ハギレを縫い合わせて湿雪・対策を施した安物だ。
耐乏生活からの、延長線上の山行・クライミングに不満も無ければ、寒い夜の苦労や暖を取る為の燃料の節約にも、それほどの苦痛や我慢を感じなかった。他の登山者との、同宿の夜にだけ恥に近い、苦痛は感じたが、それを岩壁での発奮材料と出来たのが幸いと言える。
『関西のクライマ−に、とっての冬季登攀』本格的なクライミングを目指す最適トレ−ニング・エリア
三重県・鈴鹿の『御在所岳・藤内壁』と鳥取県『大山・北壁』は、全く異なる冬季クライミングを学び現実の氷雪・岩壁を知る為に、格好のクライミング・エリア。
芦屋のロックガ−デンや蓬莱峡の、浸食・風化『粗粒花崗岩』の斜面や小さな乾いた岩場で「アイゼン履き」でのクライミング・トレ−ニングを積み、不動岩と百丈岩での重荷に苦しみ、手袋でのクライミングが将来の厳しい状況でのクライミングの『夢』に、必ず繋がると信じての練習。
氷雪に覆われ、寒気・吹雪の岩壁に
憧れた10代の若造には、北は遠く、そして
一人で、立向かう勇気に歯止めをかける
常識と慎重さ、が少し不足していて命の価値
も、まだ充分には理解していない。

そういった時代に、夢想から現実に引き戻し
本物の『冬季岩壁』の厳しさを、体験できる
場を知る事が、でき。
その場所で、貴重な体験を積む機会に恵ま
れたのは幸運。
『北壁』でのトレ−ニングを経験していなか
ったら、私の山で生きた年数は、かなり短い
時間だったと思われる。
『大山北壁・大屏風岩』
スケ−ル的に、評価を低く見る人達もいるが
冬季の『大屏風岩』と周辺の、登攀対象は
日本海側(山陰)特有の、冬季の厳しい自然
環境を有していて、特に季節風を直に海から
岩壁に受ける、位置的な環境から天候は急激に変化して、他の同一・標高の冬季岩壁と比較しても、安定した天候には恵まれず、標高の低さから、冬季の湿雪はクライミング時に身体を濡らし、岩壁に付着しやすい。

また、湿った雪は一時期に大量に稜線に積もり細い稜線部分に危険な『雪庇』を形成させて登攀後にも、気を抜けない。

岩壁部の緩傾斜・箇所から稜線も含めて
湿った積雪は、雪崩を発生させ悪天候と共に
ただ単に『岩が登れ』る、だけの能力では危険な要素を持った、実践的な『課題』を提供している。
2006年・現在から思い返すと30年も前の
私の『北壁』での、クライミング体験は身近な
六甲山の岩場からの延長線・上に意識でき
る、北アルプスへの助走的な意味を持った
冬季トレ−ニングには、最適な『岩壁』であり
当時の、費用面でも貧乏な学生が通える
範囲の『山』でもあった。

当時から、遠いと言うイメジ−は強く福知山線の『複線・電化交換』までの期間の旧・国鉄・路線での神戸から『鳥取』までの時間は
長く、不便であった。
同じ、時間と不便を考えれば大阪周辺の他の同時期に壁を目指す、仲間の多くが『八ケ岳』方面へ足を向けるのは仕方が無かった。

今の様に、便利な高速バスも無ければ、自家用車で、現地に行ける恵まれた環境でもなかったから。高速道の整備や、JR利用での時間の短縮を考えれば、70年代に関西から大山・北壁は、やはり遠いと思われていた様だ。
何度も、使い込んだロックピトンを叩き直し
木材屋から、頂いて来た木片を削って自作の「クサビ」を作成して、ロングスパッツの裏
地に保温性を高める為に、店で貰った売り物
に、ならなくなったウ−ル素材の布端を切り取って幾晩も、かかって丁重に縫い込んで
改造。高校生の頃のセ−タ−の袖を切って
背面にテントマットを貼り付けたりもした。

この頃の「不足と耐乏から得られた」工夫する能力や応用が、その後の私の山での活動で随分と実際面で助けとなった。

縫い物が得意なのは、必要に迫られてだが
最近でも、私の装備やザックは少々、目立つ
『大山・北壁、周辺』は、一つのエリアとして見れば範囲も限定されていて標高的にも、岩壁のスケ−ルも決して大きなタイプとは呼べないが、その位置する環境や冬季の自然条件の悪さや、岩質の不安定さを考えて、短い冬の期間に関西から目的を定め、真摯に『冬季登攀』への、夢を見て挑戦対象として捕らえ、実践の場として使うなら、かなり貴重な『場』と言えます。
厳冬期の『岩壁』でのトレ−ニングを身近
な阪神圏や都市・近郊の低山には求め得
ない筈の、関西周辺のクライマ−が何故?

意外と短時間で、岩壁に取り付け、稜線から
山頂を踏んで、下山する事が可能な、この
山域に来ないのかは、以前から不思議。

同じ、日数(時間範囲)で、比良山の一部の
雪のルンゼに少し、岩場が混じるような場所
でのトレ−ニング現場は混雑するのに、少し
足を延ばせば、より本格的な冬季エリアが
存在する『大山』に目標を設定するクライマ−
は、私の世代のクライマ−が若かった頃から
決定的に少ない。

第一次アイス・クライミングの流行り出した頃
にも、ここには関西には殆ど存在しない様な
雪壁から硬雪・一部の氷瀑を含んだ絶好の
ル−トが、知られていたのに知名度さえ低か
った。雪崩の危険・云々は、どの山域であろう
と同じだ。
阪神圏での、クライミング・ゲレンデで大山北壁
の情報を、他のクライマ−や先輩・登山者から
聞く機会を得られず、活字情報に関しても1970
から80年代・前半に殆ど、役に立つ情報も無か
った。労山の雑誌とか、山岳雑誌の記録の断片
程度では、課題の詳細情報は得られず、その
不安感は当時の実践を、より鮮明な記憶として
残す手伝いになっている。
冬季にアイスクライミングの『場』として格好のフィ−ルド・ル−トを提供する『藤内壁』
六甲山系や兵庫圏内には、見受けられないクラックの宝庫。厳冬期に、困難度も充実度も倍加する『壁』
でのクライミングにも、アイスクライミングとは別の多くの、課題を楽しめる。
『大山の北壁』は、この冬季の自然条件の厳しさによって、他の関西・範囲の山々には存在しない冬季登攀での体験を積み上げる事が可能な、レベル的に高度な要素を持った『ゲレンデ』としての、高い価値を持っている。その価値は、以前から過小評価されているのか、実際に『北壁での登攀・経験』を持った、クライマ−が少ないのか、それとも過去から「ゲレンデとしての範疇」で、取り上げられる事が多かったからか、内容を記録として知る機会が、少な過ぎて、今・現在も広く知られた『岩壁』だとは言えない。

スケ−ルが小さいとの認識も、実際に『大山・北壁』でのクライミング体験を重ねると、大屏風岩を筆頭に周囲には数多くの沢やガレ、尾根が意外と数多く。それぞれに課題として充分な内容を持った、ル−トが存在している。
一般的には、別山、大屏風岩、小屏風岩、中ノ沢と天狗沢、墓場尾根の名称が付けられた箇所のル−トが知られているが、他にもル−トは存在していて2000年・以降に新しい視線で、新たに開拓として着手された課題なども存在している。ガレと不安定で非常に、軟弱で夏期には危険で立ち入れない様な「課題」にも大山・特有の湿雪・降雪に、脆い岩場の凍結を利用してル−トは拓かれている。

この岩場は、崩壊と浸食が年々、加速度的にル−ト上に影響を与える、得意な自然な環境なので冬季のクライミングでも地形の変化に注意が必要。そして、安定していないル−トの確実な支点類の、乏しさと日本海側・特有の風雪と、稜線の雪庇と雪崩の危険性から、単純に冬季ゲレンデと呼べない「状況・環境と内容」を有していて、その辺りが非常に重要。
後続の仲間を確保するのに、この当時はHMSも専用ビレイ・ディバイス使わず、古典的なボディビレ−や、今ならば恐くて絶対に使わないような馬鹿げた原理を信用した『グリップ・ビレ−』を使用していた。さすがに、墜落方向に素直に向くような当時の多数のクライマ−よりは、ほんの少しマシなタ−ン・変換ロ−プとカラビナ利用での衝撃融和・方法は使っていたが、今から考えれば恐い。

しかし、場所や支点の不安定なレッジでの『確保』では、現代のスポ−ツ・クライミング・テクニックで
保障されている『安全』が、得られなかったので当時は精神的な『確保』は仲間に対しての現実的な
誠意の表れ。そして、懸ける命の重さを、充分に納得・理解できた確保の実際だった。
17歳、憧れの北アルプスへ『槍ヶ岳・北鎌尾根』にて
氷雪の環境下でのクラックやチムニ−等の、実践体験を積めたのが藤内壁での幸運。
『大山北壁』『藤内壁』『穂高』から、神戸の仲間達と南アルプスでの、厳冬期『ル−ト開拓』へ
その後、随分と南アルプスと八ケ岳には足を運んでいたが、穂高での長期露営・生活が開始して
からは、主に関東の友人達と新しい『課題』の、解決にしか冬季には通わなくなってしまった
単独での再訪は数回、トモミツさんからの強度実験・依頼で超小型・軽量テントも数度、担ぎ上げてのクライミング。
最近では温暖化の為か、全く条件が違うが私が冬季クライミングを目標に通っていた三重県『算盤ルンゼ』は、氷雪の素晴らしい条件で格好の目標・課題として手強いトレ−ニング場所だった。
『算盤・周辺』での、当時としては関西圏では珍しかった氷結ルンゼに積雪で隠れたホ−ルドを掘り起こしながらのクライミングや自分でル−トを切り開く経験は、その後の北アルプスでの一人でのクライミング時に有益で、体験していた事が生きる力の源だった。
10代の頃の数少ない厳冬期「穂高岳クライミング」時の、セルフタイマ−撮影での記録写真
岩壁部を突破して、更に山頂を目指す5日目の雪壁『半雪洞ビバ−ク』の朝
1970〜1980年代の氷瀑登攀の体験に、最適環境だった中央アルプス・エリアのゲレンデ
岩と氷の世界への最適『学習エリア・鈴鹿・御在所岳の藤内壁』
『場』が、少ないと長年に渡って言われ続けて来た『関西』しかし、実は暖冬傾向が例年・継続する
現実・環境の中でも意外と『素晴らしい場』は存在している。
探せば良いだけの事なのだから、1970年代・後半からの好奇心と「夢と憧れ」探査の山行とクライミングの旅は、いつまでも続いている。関西・範囲は岡山から奈良・三重までを行動範囲として身近な場としてエリアを考えれば、他の地域よりも格段に恵まれたクライミング環境を有しているのかも知れません。
『比良山』『氷ノ山』を含めて、幾つかの冬季登攀のトレ−ニング環境として、私達の世代・以前の登山者から記録的な評価を受けて、利用されているコ−スやル−トでは厳密な意味での『クライミング』の
次なる、課題と呼べる対象は少ない。しかし、条件によっては、無雪期・通常の積雪期間とは異なる厳しく、かつ利用価値が高まる短いチャンス期間は存在していて、そういった条件を的確に選んで記録的にも価値の高い「挑戦」が行なえる場所も、これら意外と身近で古くから利用されて来た山々の利点。
特に、最近では技術的な向上と共に目的に合致した機能が得られる『スキ−・ジャンル』で、挑戦的な
記録を数多く見るようになったのも、これらの都市圏から手軽に立向かえる山々ならでは。

しかし、一般・登山の範囲に属する山行記録が、名称や呼び名で「クライミング価値」の存在しているように錯覚する、させる様に記述されて歩行と登攀が混同するような感覚で表現されているのは個人的には反感を持っている。そういった例を、関西の冬の山の記録では頻繁に目にするようになって来た。
Monday, January 22, 2007
『情報や記録』を一切、何も公表していない兵庫県・北部『日本海・近くの山』にも、80年代から開拓を始めた冬季限定で登攀価値が生まれる『ゲレンデ範囲を超えた、課題』は存在している。

クライミングの対象としての『場』も、意外な程に『海』に近い場所に点在していて、それらの課題の幾つかは21世紀に入ってから、少し発見・手が触れられるようになって来た。
本格的な『アイス・クライミング』の舞台も、関西範囲の意外と身近な山域に存在している。それらは徐々に
一般的な『エリア』として『情報』は、知られ出した。しかし、本当の価値は中々、深部まで踏み込まないと理解できないようで、クチコミ情報の範囲では存在している『課題の価値』を知る者は少ない。
1年間の新聞『連載情報』の中で『六甲山の冬季・穴場コ−ス』の一つとして、裏六甲・有馬上流域の凍結する滝を紹介したのが、今現在の混雑の最大の理由だが、私が新聞やTV映像で紹介するまでは、過去の情報は完全に忘れられていたようなコ−スで、アイス・クライミングの練習が可能だという事を知る、クライマ−もいなかった。しかし、1960年代の六甲山のハイキング本には(下・写真)が、掲載されていて何も新しい情報ではなかった。大山にしろ、比良山や奈良県・範囲の山域にも、そういった過去の情報が忘れられた課題は意外と多い。そういった例は、実は兵庫県の岩場や渓流に、数多く存在している。
1962年ごろの『裏六甲山・百間滝』完全氷結
Sunday, 11 October, 2009
2002年、以降からガイド業務で『北壁・天狗沢』でのクライミングに入っていないので、最近の状態を私は知らない。80年代の中頃から、徐々にだが『アイスクライミング』環境は、悪化していて温暖化の影響も強く受けている山域・ル−トだと思うので、60年代から70年代の記録は殆ど『情報』としてしか役立たない。
六甲山・山域の中でも『芦屋ロック・ガ−デン』と同じく、RCCの系統を引き継ぐ正真正銘の『古典派』からの継承エリア。『裏六甲山・有馬上流のアイス・ガ−デン』は、昭和の時代に本格的な冬の実践ゲレンデとしての位置を確立していたが、惜しむらくは徐々に『厳冬期・限定』フィ−ルドの価値と知名度は失われて行き、70年代から90年代は、ほぼ関西範囲の登山者の多数、クライマ-の意識からも一時、忘れられた感があった。
丁度、日本国内での初期の『アイス・クライミング流行期』に、私の当時の仲間達、主に大阪の若手クライマ-が関西範囲での手軽な『アイス』練習場所を探し出していた頃に、このフィ−ルドを再発見して教えたのは私で、新聞紙面への連載・情報にも、この辺りの氷結環境を紹介し出した。今から、思えば観賞目的での『凍る滝』情報を少し、安易に出し過ぎたと思うのだが、その頃には、まさか低山域とは、言えども、ここまで無謀・無知な危険な観光的な入谷者や営利ツア-や、団体が大挙して入って来るとは、想像すらしなかった。
短時間ながら厳冬期のみ、利用価値が生じる、奈良県の大峰山系『大普賢岳・範囲』の大氷瀑エリアの発見から、開拓は個人的に最も、初期の入谷から、初登の機会と、最終目標ル−トでの下部・氷瀑から一度も巻かず、逃げずの稜線までの理想的なル−トを完登してからは、同一・山域ながら更に未開拓なエリアを次に、発見・今現在も活動を継続中。(偽記録や煩わしい、怪しい記録は無視)