六甲山の岩場『仁川渓谷』スタ−ライト・ロック
大正時代に英語名を冠した「岩場」が、クライマ−に利用されていたと言うのは非常にモダンで、当時としても、かなり珍しい出来事だったと考えられる。多分、当時この様な変った、遊びを楽しむ事が出来たのは少数の限られた人達のみだったろう。そして、外国語を使用して、遊びの舞台を表現できた人達も、神戸と言う土地柄から考えても、かなり裕福な学生層や社会的な地位を有した、人達だとしか思えない。
藤木氏の渡欧・帰国、以前から『六甲山の岩場』には、英語・表記での名称が付けられていたと言う歴史
があるので、英国からもたらされた各種『登山技術』の翻訳本から、強い影響を受けた阪神圏の登山者
が、この渓谷の岩場に使用した名称も、かなり古い時代の事だと推察される。

『スタ−・ライト・ロック』私達が岩場の名称を知りえた1960年代には、単に『スタ−・ライト』と、呼ぶことが多かったが、年配のクライマ−の中には『スタ−・ライト・ロック』と。呼び称する方達が存在していて、隣接市の芦屋には『ロック・ガ−デン』が、同時代からRCCメンバ−を中心として、発見・開拓されて関西のみならず日本のロック・クライミング発祥の地として、近畿圏内の登山者に知名度が高まっていた。
『ロック』を付けるか、付けないかは世代的な継承によるようだ。

この岩場は、渓谷内の目立つ場所に位置していて、他の『六甲山の岩場』とは、周辺の自然環境や雰囲気の趣が異なっていて、増水時期には壁下に立てない不便さと、岩場・両側が常時・湿っていたり、染み出しで濡れている場合も多い事から、80年代・以降から、あまりクライマ−に活用された岩場ではなかった。私が近くの『甲稜中学校』に、入学した春には、この渓谷の岩場では大阪から大勢の登山者がクライミング特に、小さいが『ハングでのアブミ練習』を行いに来ていた。

足元は登山靴や地下足袋で、まだ木製やジュラルミン・プレ−トの2段アブミを使用している人達も、見受けられた頃で、確保は『腰がらみ』が主流。

まだ、上流の甲山・西側の丘陵地帯に人工的な施設が見られず、南側の山間部には自然が残っていた頃なので「仁川」の渓谷内の水量は時として、台風後の増水時には、この岩場に取り付くことは出来なかった。『三段岩・取り付き地点』から、一端・下ってから横に小さな岩溝を渡って、この「岩場」の上に立つのが定番コ−スで、奥の暗い『岩溝』の中では、草鞋履き登山者が『懸垂の練習』等も、おこなっているぐらい1960年代から1970年代・後半までは多くの登山者が『ゲレンデ』として、クライミング練習に、この小さな岩場でさえも活用していた。

本格的な『大きな岩場』は、まだ『夢の先』中学生には大人達が使っていた『用具』に、興味津々な頃だった。特に『アブミ』と『ハ−ケン』を見つめていた。

『フリ−クライミング』の対象は、数多く再発見できる恵まれた期間を余裕を持って楽しめた、私達は恵まれていて、ここ『仁川渓谷の岩場』は、最も手軽な課題への挑戦を満喫できる場所の一つだった。

震災後は、一般・登山者が休日ともなれば列を成して歩いていた渓谷沿いの登山道も閉鎖され、岩場
も忘れられたような雰囲気で、実際にクライマ−の姿さえ見ない休日と言う事も多い。
何より、近くに大学が在りながら、80年代より彼らがホ−ム・ゲレンデとして、この岩場を大切にしていないようで、私には少し寂しい気分だ。

たまに私が、項目分を執筆した『関西の岩場/古いガイド・ブック』持参で、この岩場を訪れる若いクライマ−も、いるのだが何度も再訪する若いクライマ−は少数だろう。
一時、クライミング専用品では無い、強度にも不安な安価な工事用ボルトや、すぐに錆びて汚い手製と
見られる、スチ−ル・ハンガ−を残置していくクライマ−や、チッピングを行う輩も出現して、この岩場が
益々、関西のクライミング・クライマ−から、見捨てられそうになった時期があった。
元々が増水すると、取り付け無いという位置にある岩場で高さも無く、メインの小ハングが染み出しで濡れている事が多いと言う環境も災いして、この小さな岩を今時、わざわざ登りに来るクライマ−は、まず、いない。そろそろ『完全に忘れられた』岩となり出した。
1963年の初版本『六甲山ハイキング/大西雄一・著書』の白黒・写真に、60年代の仁川渓谷『スタ−ライト・ロック』下を歩く登山者が出ていて、ロ−プを結び合ってのコンテ行動の様子が理解出来る。
(下・資料写真)両岸の岩場のコ−スを、今現在トレ−ニングに使用している登山者は、少ない。
2008年5月『撮影・下写真』
誰にも触れられる事無く年々、クライミングの対象としての価値は失われているように見える。