


| 『六甲山の岩場』芦屋ロックガ−デン |
| RCC時代の『岩場・B懸垂岩』震災で崩落・完全消失 |
| 1970年代には、古典的なRCCの『練習・岩場』としての、名残と名称としての『B懸(ビ−・ケン)』以外に、この岩場を特徴づける、ものは存在していなくて、実際に風化が極端に表面に現れ、残置された支点類も耐久強度に、かなり不安だった事も、手伝って岩場・下を歩くクライマ−は数多くても実際に『B懸垂岩』を登るクライマ−の姿を見ることなど、ほとんど無かった。 |
| 1980年代の『ガイド・ブック』には、技術的な問題ではなく 風化が進み、フリ−クライミングの場にも変更できずに残 った。 この岩場のエイド・ル−トも安全の為にトップ・ロ−プ 利用が、薦められていたほどだ。 (左・写真)も、当時の若いクライミング仲間が何かの記録 か、岩場ガイドに使う『写真』が、必要とかで登った経験を 持つ、私がリ−ドで登るのを写真・撮影したいとの希望で 久しぶりに登った時の、記録。 この頃で、残置ピトンの効きは・かなり悪く誰も登りに来な い理由が理解できた。 私以外の若い子達は、それぞれトップ・ロ−プで遊ぶ。 今から、思えばトップロ−プでも彼らが、この古い岩場を 体験(実際に登って、おいたのは)したのは良かった。 |
| 2006年、現在この周辺の風景も私が知る40年間ほどの 年月で、記憶とは程遠い地形の変化を見る。 更に50年・60年と言う、歳月を振り返れる登山者や青春 時代にクライミングに賭けていた先輩達が、この景観を見れ ば寂しさを感じることだろう。 IT時代となり、この『芦屋ロックガ−デン』は実に様々、多く の人達のHP経由で、情報が発信されている。 地名や岩場名称は混乱の極み。皆さん、勝手に好き放題 書いている。嘆かわしいとは思う・・・・・ |
| (下・写真)は、故・黒川君とOCSの最年少メンバ−の二人。一人は、まだ高校に入った頃だったのでは? |
| 『マッタ−ホルン』のイタリア側リッジに似ていると言う事から『命名された・岩場名称』芦屋ロックガ−デンの数多く知られている『岩場』の、中でも古い時代からクライマ−に利用されて来たが、1960年代・以降から 『クライミング』に立ち寄る、人は少なくアプロ−チも70年代には潅木に隠れ出していた。 地元の「写真家・山本氏」と、共に記録写真を写しに上がった頃も、クライマ−の姿を見た記憶が無い。 対岸に位置する『キヤッスル・ウォ−ル』や、ボルダリングで知られ出した『荒地山』の露岩・大岩と比較して、この、古典派が遠い異国の山々とクライミングに思いを馳せ、ピトンの詩に将来の『夢』を見ていた岩場も、訪れるクライマ−が戻る事、無く『震災で完全に消失』した。 現在は、かっての『岩場』を思い出せる痕跡も全て、岩崩と共に押し流されて、アプロ−チの小径も消えた。 登れていた頃の「貴重な映像フィルムや写真」は、運良く「山本氏」が、保管されていると思う。 私も、当時の古い「写真」記録を探しているが岩場の消失と同じく、古い記憶の証はネガに黴が付着したり 損傷が激しくて、スキャンも適わず使える「写真」が、殆ど手元に残っていない。 高校生の頃に、ちよっと気取って貰い物のツィ−ドの背広に、学生ズボンを詰めて作ったニッカに、格安で当時・販売されていた革もどき・偽物(登山靴)履きで、イタリアン・リッジで撮影した、笑える白黒写真が懐かしい。 1日に10ケ所の「岩場」を探して、谷から尾根へ地図と「雑誌・切り取りペ−ジ』片手に、この辺りを走り回っていた。あの頃に尾根から、迷い込んだ谷筋・周辺にも、今では踏み固められた、地図には無いハイキング道が数本・交差して、賑やかになっている。近くの『奥高座滝』は、かってのクライマ−の憩いの場から、中高年ハイカ−の休憩地として、賑わっていて滝横の岩場も「中高年者のスリル堪能・場所」として、固定ロ−プに足場も、作られている。RCC時代の時代の人達は、この光景を面白がって見ているだろう。 |
![]() 『雲湧くマッタ−ホルン・イタリア側』 |

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