『フリ−クライミング』の基本理念・理想は、時代的な背景と実際の活動・舞台となる『岩場』での、その時代の最も精力的で情熱的かつ、岩場での実際のパフォ−マンスを、具現化・表現できるクライマ−の主張に依る部分が大きく、一部の理念・理想が全てのクライマ−の『総意』とは言えない。

今よりも各国・各地のクライマ−ズ・コミュニティ−が、小さく情報量が少なく、一つの岩場が独自のクライミング・カルチャ−を形成・保護していた時代には、個々のクライマ−の意識は、ある種の共同体への帰属・協調路線にたやすく向っていたが、違った意識や思想を独自に守り、他のクライマ−とは異なる理想や理念を抱くクライマ−は、どの時代・地域にも存在していた。

世界中の広範囲のクライミング・クライマ−には、それぞれ独自に進化し守って来た、スタイルや地域枠のみでしか、共通では無いが暗黙の『規範・ル−ル』は数多く存在していて、そういった地域・独自のロ−カル・スタンダ−ドや『不文律・的なモラル=ル−ル』は、これまでならば他・地域からの来訪者も厳守もしくは、見かけ上は尊重していて、敢えて論争や問題を引き起こすクライマ−は、非常に特異で少数な例だった。

IT使用による無秩序かつ、匿名性を最大に利用できる『情報発信』は無制限で、社会モラルや既存のル−ルの枠組みさえも破壊する環境を創造しているので、ことクライミング環境でも極端な思想や理念、理想が自由に発信・表現されていて、地域枠の違いや過去の歴史的な尊重項目も、簡単に無視されだしたのが実情。クライミングの世界では100年程前には一つの「用具」を巡って、激しい思想論争が引き起こされた。

『クランポウ=アイゼン』の使用から『ロック・ピトン』での安全確保、『ボルト』の使用に関しての、根本的な意見対立などは、今では想像することも適わない次元の世界と受け取る、クライマ−が殆どだと思う。
『フリ−クライミング』の言葉に全てスポ−ツの名を冠したいと思う人達が、1980年代から何故も急激に
増加して、あらゆる場面で声高に『スポ−ツ・クライミング=スポ−ト・クライミング』の、表現に固執するの
かを分析するのは、本当は意外と簡単で、表面上の論説は困難では無いが、それを愉快に思わない人達は数多い。
トライ数を、まるで豪放な武道用語やコミック用語で普及したような『一撃』等と称するのも、本来はフェアな
態度やスタイルを優先すべき、クライミング本来の「冒険的・要素」を数多くの新語や隠語で、意味的な部分を拡散させる部分にも、本来ならば正確かつ厳密なル−ル上の取り決めや、普遍的な部分を追求すべき態度さえも曖昧にさせているのは、誰が意図しているのかを考えるとクライミングを楽しむ、多くの人達の意識や心理面での変化が読み取れて面白い。

他のスポ−ツとは違う危険性に、最大の魅力や誇示したい「プライド面」を誇りながら、逆説的に最も安全な
「アウトドア・スポ−ツ」と表明して、実際は多くの時間をアウトドアの言葉とは、全く反対の風は遮断され、太陽の光りも浴びなければ、自然条件の変化や季節にも影響されない『室内の人工的な壁』で、クライミングを楽しむ。この一種・矛盾していて、その行動の理念や理想が困難度を数式で表す『グレ−ド』に、最大の価値と意味を見出している『遊び』が、冒険的な要素を秘めていた『本来のクライミング』の、変化した姿なのかを、証明するのは難しいかも知れない。
初期ではなく、ほんの少しの過去。フリ−クライムにも一定の危険を受け入れるスタイルが一般的な規範であり、暗黙の了解・部分のみであったかも知れ無いが、多くのクライマ-共通の認識・ル−ルでもあった、危険を自らの行為の中に、容認する。安全限界と自らの危険は自身が判断する、これらは大人のクライマ−が事前に承認し認めていた、一種のフリ−クライマ−にも適用されるクライマ−カルチャ−で認められる為の、最低限の了解・一つの共同認識グル−プでの、関係への参加資格でもあった。

端的な例は、日本に本格的な『フリ−クライミング』の理念や行動に関する指針・見本的な活動が紹介された頃に『アメリカ』での、同じく理念と思想を、フリ−クライミングとしてクライマ−が主張・行為で表現し出した頃のロ−カルから広がり始めた『ル−ル』としてクライミングは高離に関係なく、その出発・スタ−ト地点を岩場の始まると誰でもが認める『地面』からとして、もし既存ル−トで終了点からの、ロ−プ等の利用による下降でル−トの、内容を事前に調べたり、危険回避の手段を予め、岩壁に設けるような行為は、フリ−クライミングとは認めない。

このル−ルは未登・岩壁やル−トの開拓を予定されている部分でも、全く同じ様に適用されていて、定められた、ル−ルを無視して登られた記録や拓かれたル−トは、初登尊重の名誉を受けられない。

リ−ド・クライミングの途中で墜落(フォ−ル)したら、その時点で地上まで降りて、再び地面(スタ−ト地点)から再びクライミングを再開する。ル−ト途中でロ−プに、ぶら下がって休養後に再びル−トに戻ったり、プロテクションを利用して、壁中に停止している事は認められない。

以上の最低限の『2点のル−ル』は、単純で非常に明解。

上記の『フリ−クライミング・ル−ル』とも、認識できる暗黙の了承事項は、1960年代から80年の前半期に活躍していた、アメリカ・ヨセミテでの多くのフリ−クライマ−に尊ばれていた、根本理念。

こういった現在では『クライミングのピュ−リタン思想』もしくは『進化を拒否した古典派・思想』と呼ばれる事も多々ある意識・理念は80年代に入って、徐々にフレンチ・クライマ−の影響と、現代的な『高強度・安全ボルト』の使用によるフリ−クライミングに触発されて、原初的なル−ルからの離脱者が増加して、狭いクライマ−社会での大論争に発展して行き、1986年の『グレ−ト・ディベィト/大討論』と呼ばれた、デンバ−で開催されたAAC(アメリカ・アルパィン・クラブ)年次総会での出来事。

この時の『シンポジウム/大討論』には、当時としても伝説的なクライマ−として影響力を強く持っていた『レイトン・コア』と『ジョン・ギル』がゲストとして参加していて、半ば伝説的なクライマ−として注目されていた、この二人は穏健派として、興奮した若手参加者とは一線を画していた。声高に主張を叫ばなくとも、彼らには過去の実績と行動で充分に、自身のクライミング哲学や論理が、聴衆に理解されていたという事だろう。

実際、この『討論/ディベィト』以前に、アメリカでは各地のロ−カル・クライミング・エリアで『フリ−クライミング論理』に関して、口論やイザコザは多発していて『自由の国』の中で、クライミングの自由に関しても活発な論議が始まっていた。まだ、クライマ−間の意識面での違いが、一種のコミュニティ−を崩壊する直前でもあったようで、ヨ−ロッパ・特にフランスでのフリ−クライミングのに影響を受け出して、意識面での変化が始まり始めた時期でもあって、ある意味での『混乱期・前夜』の感から、どう脱却するかに注目が向き始めた時期のタイムリ−な『討論会』として、当時のクライマ−は勇気を持って各自の思想と意見を発言した。

面白いのは、後に意識面も行動面も全く逆の立場に、変更する以前の『ロン・カウク』は、このディベィト時には『正統派/古典クライマ−』の第一人者、代弁者の代表として、伝統的なフリ−クライミングを擁護、論理とスタイル面での主張に多くのアメリカのフリ−クライマ−は、共感を覚えて『伝統派の尖兵』の役目を果たしていた事だろう。

『ロン・カウク』と同じ立場で主張に同意した、当時の伝統派・代表のクライマ−は『ジョン・パ−カ−』に『ランディ・ヴォ−ゲル』そして『ヘンリ−・バ−バ−』この『ディベィト』に、往年のヨセミテ派・代表格の『イボン・シュィナ−ドやロイヤル・ロビンス』らの意見が見られたのかを、私は知らない。
反論側の『フレンチ・スタイル容認派/急進改革派』には『アラン・ワッツ』『トッド・スキナ−』『クリスチャン・グリフィス』らが、論争?討論に参加して、どちらかに完全に組しないが、フリ−クライミングの実際面の進歩には時流に併せた寛容さや、個人の自由が必要だという『中道的・容認派』として、『リン・ヒル』も参加していた。けっきょくは、他人に影響や被害を及ばせないならば、スタイルに関しては寛容であるべきだ、個人の自由は守られるべき『自由の国』らしい、総論に聴衆は心を傾け始めたらしい。

この『初めてのスタイルと論理に関する、大討論』は、決してアメリカでの『フリ−クライミング』クライマ−間のコンセンサスを得られた、モラルやスタイル面での指標的な決定・意見とは、ならなかったが明らかに多くのクライマ−に『フレンチ・スタイル採用』での、クライミングの進歩という、考え方には一定の評価や賛同を得る、きっかけ・には貢献したと考えられる。ただし、個々の、強い理念や哲学には抵触していて、隠れた批判や自己主張とは全く、異なるクライミング・スタイルでの、行動で表面化して来た出来事への、新たな問題は更に、表面化していて、個人レベルでの論争は一種、醜い様相に変化していき、路上や壁下での論争は実際の傷害事件・暴力行為を伴なう、対立へとも進んで行った。

有名な事件?は古典派・モラリストの主張者として、当時から有名だったロン・カウクの渡欧後の突然の意見・主張変更で、完全ボルト容認者として、かっての仲間達から批判を強く受けて、ソロクライマ−とし著名だったジョン・パ−カ−に『キャンプ4』の路上で殴倒された。本人はクライミング雑誌に、逆に殴り倒したと書いたとか、信憑性は別にして、この種の事件が引き起こされたのは事実のようだ。

当時の『事件・問題』の中で、何故ロン・カウクの意見・変化が大きく取りざたされる。、彼が当時はヨセミテ派を自認し、祖国アメリカのクライミングに誇りを持っていて、世界的な『クライミング・コンペティション』に出場した時にも、一時期の流行で誰でもが履いていたライクラ・タイツを指して「ジョン・ウェインは、あんなもの着ない」と、トラッド・クライマ−としての意気を証明した言動と、全く逆の立場へと変貌したからだ。

それ程に、トラッド派のフリ−クライマ−の現代的スポ−ツ・クライミングへの、意識変化への抵抗感は強かったと言う事だろう。

『ロンカウク』と『ジョンパ−カ−』の間の『フリ−・クライミングの論理・モラル面』での、論争の最大の争点は
カウクがヨセミテで『プリ・ボルト』を採用して、拓いた『パンチライン』を巡って論争から『マ−ク・チヤップマン』が、加害者となった『ジョン・パ−カ−殴打事件』にエスカレ−トして、当時の『マウンテン121号』でも報じられて世界的に論争の種を蒔いた。
この『ジョン・パ−カ−・パッシング』に関しては日本国内でも『岩と雪・129号』の、トピックス欄で取り上げられていて、その後も論理面での論争の中で暴力的な解決策がアメリカのクライミング界では、一種の聖地とも呼べる『ヨセミテ』の中で、衆人環視・多くのクライマ−の目前での出来事だったので紛糾は続いたと言われている。被害者である『ジョン・パ−カ−』は、、『マウンテン』に正論であった項目別の『反論・記事』を寄贈。カウクの擁護者であった『マ−ク・チヤップマン』に強烈な、論理的な反論が行われた。
当時、ヨセミテを含めてアメリカのクライミング・フィ−ルドでは、基本的なクライミング・スタイルとして当然ながら、下からル−トを拓く方法がスタンダ−ドであり、世界的に見ても第一級の高難度ル−トを生み出していて、量は別として質的には欧州・特にフランスから発信され出した新しい『スタイルのクライミング』を、絶対・多数のクライマ−が容認・支持していた環境ではなかった。ル−ルの違いは、時として『場の共有』にも大きな摩擦や誤解を生じさせ、違った『スタイルやル−ル』で開拓され、造り出されたル−トや課題を同じ『数字的な基準』で計るという基本的な矛盾を、多くのクライマ−が感じ始めたという時代の出来事だろう。
こういった『真摯な論争や意見対立』を、元としたクライマ−間の問題が大きく表面化せず、しない様に努力?して、無難だが本質的な『問題から派生する事柄』や、本来は必要だった期間・時代を得られずに日本の『フリ−クライミング』は、加速度的に『フレンチ・スタイル』を基準とした、ある意味で何でもありスタイルを発展させた。
派閥と言う表現を、使用するならば『両派』の『権利』は、クライミング表現と行動の『自由』の間で妥協点は見付け難く、同じ権利や自由が『同じクライミング・エリア/岩場』で、共存する事は両方の妥協にしか解決策は見出せず、妥協の余地が余りにも少なかったが故に、『物理的・時間的に有利なプリ・ボルト派』の台頭・発展は誰にも、押し止める事が出来なかったというのが現実だと私には見えていた。
膨大な『時間と情熱・労力』を傾けても、簡単な『プリ・ボルト』下見から、ラッペル利用も含めてのル−ト開拓とは、明らかに不公平ではある。下から攀る方法を選択したクライマ−には、時間的な制約も含めて、同じ岩場・ル−トで競争すること自体が無意味となって行った。そういった時代背景の中で、問題の元凶?原因伴った『パンチ・ライン』を、この論争後にも現地ロ−カル・クライマ−も、他州からの来訪クライマ−も、多くは『価値あるル−ト』としても『クラシック』としても、見なしていず・評価は難度に反比例して不評であり、褒めてもいなかったという。論争後の数年間は再登するクライマ−さえ存在せず、カウク以外の無名なクライマ−の手になるル−トで無ければ、もっと早くにボルトは撤去されたという意見が大方の意見だったそうだ。
こういった本家?フリ−クライミングを世界的に最も早くから実践し、ピトンからチヨックの使用へと牽引役としての立場を20年間ほどの期間・意識改革と見本としてのル−トの開拓、そして限界へ挑戦する数々の素晴らしいパフォ−マンスで、このカルチャ−・ジャンルを目指す多くのクライマ−の、見本と成っていたアメリカのクライミングも新しいシステムで、急激にフリ−クライミングの限界難度を押し上げ出した、欧州勢の勢いの前で、ある意味で状況の打開を、模索せざる得ない状態に追い込まれたようだ。

当時・リアルタイムでの各国の状況を知る術を持っていた日本人クライマ−は、僅かで一般のクライマ−にとってはセンセ−ショナルなヨセミテ渓谷での、クライマ−同士の喧嘩・騒ぎや他のアメリカ本土でのラッペル・ボルトやハングドッキング採用での上昇を続ける、新しいル−トや、これも世代交代が話題となった新しいタイプのクライマ−から、ボルダラ−の活躍ばかりに目が向いていて、根本的なクライミングに関わる『ル−ル』や『ゲ−ム・スタイル』論争には、それほど興味を抱く事は無かった。その期間にもフランスやドイツで急激に普及・浸透していった、新しい『スタイルでのフリ−クライム』は加速度を早めて、その影響は最終的には本家?アメリカは、もとよりフリ−クライミングの復権?ある意味でのアルパィン・クライミングとの対立を無視し、根本的な論理論争も避けながら日本は日本で、全ての影響を素直に受けて、国内での活発なフリ−クライミングの場の開拓・開発から、多くのクライマ−を賛同者・シンパとして増加させながら、急速に意識面での論理や過去の規範やル−ルが、失われていった。
『クライミングとは下から登るもの』そういった基本的な、考え方やスタイルさえも、覆されて本来のフェア−と呼ばれる新しいル−トを創造する、過程での論理的な価値観は『出来上がったル−ト』のグレ−ド数に、よってのみ評価される傾向が始まり出した。打たれたボルトの設置方法まで、誰も気にしないし、モラルを問うクライマ−は消滅したかに見えていたが、そういった80年代にも『基本原則』を失ってまで難易度を追い求めない、逆に圧倒的な不利な状況での、難易度の追及を目指していたクライマ−も僅かながら存在していた。しかし、そういった頑固者の系統は、ものわかりが良くて、何でも自分達の都合に合わせて、効率良くクライミング能力を向上させられ、無駄な労力・費用に時間も短縮できる『スタイル』の採用に全ての意見を、何ら問題なく説明できていったらしい。疑問を挟む、変わり者は極端に少なくなっていた頃だ。
屏風岩1ルンゼを初登したクライマ−は、予め屏風の頭から下降してル−トでのフリ−クライミングの可能性を確認した訳ではないし、ボルトはおろかピトンの使用さえも、ある意味で最終手段と認識していた。国内フリ−クライミングの諸端を担ったと、評価され『小川山でのフリ−』の文字通りの先駆けとなった『廣瀬ダイレクト・ル−ト』でも、ハングドッキングやトップロ−プ・システムが採用された訳ではない。

時代に乗り遅れたくなく、後のクライマ−の進歩や理想を無視して、予め保護された安全なフリ−クライミングで未来の可能性は、殆ど岩壁から消え失せたと言う意見も、進歩の声の前では夢想家の小声ていど。
日本のフリ−クライマ−が、以前のクライマ−が到達し得なかったグレ−ドの、上限を素早く乗り越え出した頃。本家?アメリカの登山界とクライマ−社会は、論理面の対立の沸騰点に入り始めていた様で、それまでのトラッド派と目されていたロン・カウクを筆頭に、数多くの当時の最強クライマ−が、それまでのアメリカが保守・保持していたクライミング理念を放棄し出して、次々にグレ−ドの上限を押し上げ出した。代表的なクライミングは大岩壁を控えた『ヨセミテ渓谷』から、離れ出して、よりアプロ−チが近く、移動が楽で何度ものトライが物理的に可能な『クライミング・エリア』や『ボルダ−』で、競争が激化して行った。

ジョン・パ−カ−と共に、孤高の性格や気難しい人格が取りざたされる事が多い、移民系クライマ−のトニ−・ヤニロウはアメリカで最も大胆に、かつ執拗に目立つ場所と方法で『ハング・ドッキング』での、具体的な成果を実証したクライマ−とも言われていて、当時・世界で最難と称された、シェラのル−フ・クラックに1979年に『グランド・イリ−ュ−ジョン』を拓き、一躍トップ・クライマ−の評価を独占していた。

彼以前にも、こういった方法を採用して新しいル−トを開拓したり、既存の困難なル−トを再登するクライマ−は多数いたが、この頃には論理面と他のフリ−クライマ−からの、非難や冷たい視線を避けるためか、それほど、方法論の優位性や効率を声高く叫ぶ?主張するクライマ−は、多くはなかったのだろう。

彼一人が先導役を勤めた訳ではなく、同時代的に流れは各地・各エリアのクライマ−に、影響が進み出していて、抵抗感を示していた一部のロ−カル・クライマ−とイボン・シュィナ−ドの様に、多くのクライマ−に影響を与えられ、かつ論客としても自身の経営するクライミング関連・装備会社の広告でさえも論争に加える、事が可能だったクライマ−も、問題を見過ごそうとはしなかった。

主に『フリ−クライミング』の伝統的な価値観・対・新しい方法・システムでの、より困難なクライミングの追及の為の、技術面と精神面の『妥協』は、一部のクライマ−同士の口喧嘩や対立では、済まなくなってしまい
『ハング・ドッキング』から始まった、難易度の追及の為の『新しいル−トの開拓』では、多数のクライマ−が同じ時期に各地で壁上からラッペルして、必要な安全確保に必要な『ボルト』を叩き込んだ、この方法は『ラップ・ボルタ−ズ』と称されて、トラッド(古典派)伝統的なクライミング・スタイル保護論者に、批判の最も大きな理由を与えた様で、今で言う『スポ−ツ・フリ−・クライマ−』達を論理面から強烈に、以前にも増して強く批判させ、双方の心理面での対立も頂点に差し掛かった。スポ−ツ・スタイルのクライマ−達を、、トラッド・伝統派は1950年代のアメリカの悪夢『共産圏・シンパ・マッカ−シズム』コミュニスト批判と、同列と揶揄し、ハング・ドッギング容認派は、批判側のクライマ−達を『岩の憲兵隊・ロックポリス』と、呼んだと言われている。

こういった『当時の状況』を私達は、唯一のクライミング情報誌であった『岩と雪』紙面からは、殆ど何も情報を得られず、僅かに記録情報の狭間の現場・状況や、短文の話題程度の記述から、想像しているしか興味を埋める事が適わなかった。僅かに海外の『クライミング情報』を、英文から読み取れる、ごく一部のクライマ−や現場を見て帰国したクライマ−からの、これも僅かな断片情報も、あまり頼りではなかった頃だ。

最近になって、、この主の当時の時代的な背景を充分に踏まえて、論争や対立の図式や経緯を、ある程度は、詳しく知る事の出来る『リン・ヒルのクライミング・フリ−』が、訳されて発売され、疑問の幾つかは解決した。コンペティション・クライマ−としての活躍ばかりが目立つ、世界的なフリ−クライマ−『リン・ヒル』の自叙伝・本の枠を超えてフリ−クライミングの、ある一面・歴史的な発展経緯を知る本と思えた。しかし、彼女・自身が説明しているトラッド・伝統的なフリ−クライマ−からの転向理由や、まるで『ビバリ−ヒルズ青春白書』並みの、フランクでオ−プンな恋愛遍歴が、読み物として面白いかどうかは、好みが分かれる部分だろう。
私には、ある意味で歴史背景を読み解きながらの『リン・ヒル』個人の、生き方の物語や一人のクライマ−の成し遂げた『夢』としての、内容も示唆的で面白い内容の本だと思えた。

ロン・カウクがバトリック・エトランジェとのクライミング・ツア−で感じ、表現した文章で受けていた、疑問も少しは理解できた。
『ジョン・パ−カ−・バッシング』を知る、日本人クライマ−は多いが、この事件の本質的な『問題』を深く掘り下げて紹介したり、歴史的な経緯を含めて判りやすく『論評』したり、分析する報告や情報を後に目にする機会は殆ど無かった『リン・ヒル』の自伝的な内容の記述の中にも、その後の『論争・問題』に関わる情報は少ない。『論争と事件』の、その後は更に『問題が深刻化』しているようで、カウクはヨセミテではなく、パ−カ−の方が先に『開拓に着手していた岩場・トゥオラミ』で、論争の最大・要因・原因でもあった『ラッペル・ボルト』でパ−カ−が挑戦していた(無論、下から)ル−ト『ユ−ロピアン・ヴァケィション』を拓いた。これは、これまでのアメリカのみならず、歴代のクライマ−が暗黙のうちに了解し、守って来ていたクライマ−同士の友情的な信頼関係や、よき伝統でもあった尊重精神を根底から崩壊させる行為でもあり、『フレンチ・スタイル容認』『プリ・ボルト』賛同者からも、危惧的な視線を向けられた行動でもあった。
当然と言えるかも知れないが、カウクの開拓した、ある意味で『横取りル−ト』では、リハサ−ル後にリ−ドでの初登を目指していた『カウク』以前に『パ−カ−』によりル−ト上に設置された『ボルトは叩き潰された』
こうなると、正に『報復合戦・泥仕合の様相』であり、カリフォルニアのフリ−クライマ−には、一種の『暗黒時代』マッカシ−時代を髣髴させると、オ−ルド・クライマ−は危機的な状況を危惧していたらしい。この軋轢や個々の壊れてしまった若き日々のクライマ−間の、信頼やアメリカのクライミングが世界に誇っていた実績やヨセミテに代表される、よき時代の友愛的・・ヒッピ−文化の残像も残していた自然観にも、大きな影響を残した事は疑えない。ベトナム反戦・撤退後のアメリカ人のクライミング観や、誇りにも影響を残して問題は表面上は沈静化した。
制作進行中