広島県『三倉岳』
1970年〜80年代の『西風・伝説』発祥の地として、代表的な岩場の一つとして知られていてる。
1977年、当時で日本国内で最も初期に明確なフリ−・クライミング思想の元にアメリカ・ヨセミテ基準のデシマル・グレ−ド方式を採用した、新たなル−ト開拓と岩場の再生が、精力的に実践された場として非常に価値在る岩場なのだが、意識面での先鋭的な部分もクライミングの質的な高さも含めて、伝播影響は少なく惜しまれながら、ロ−カル・クライミング・エリアの一つとして、あまり多くのクライマ−の注目や興味を引き付ける事無く、現在も折角のクライミング施設も利用停止となり、キャンプ場の施設も老朽化し出し、県外から訪れるクライマ−も、それ程は多くない。ル−トの一部やクラックに草も生えだして、消え出すラインさえ見出せる。

『不遇』な状態に置かれた、岩場と考えられる。三倉の存在が、各地のクライマ−に広く知られるきっかけ、そういった種類の情報が雑誌に公表された時に、当時のフリ−・クライミングの意識面と実際の活動で一種・厳格さ、純粋が故の誤解や、個人や少人数のグル−プの中での意見が、半ば公然と他のクライマ−にも強制的なル−ルの徹底が要求されると、誤解されて多くのクライマ−に抵抗感と共に、恐れに近い感覚を抱かせたようだ。いわく、チヨ−クの使用は厳禁。フレンズに代表されるメカニカルなプロテクション・ギアの使用の、自粛と新たなル−ト開拓の為のボルト使用も利用できない、云々・・・・・
特に、厳格なフリ−・クライミングのモラル&ル−ルが三倉派では当然で、不安定な体制でのチヨック類のプロテクションの設置や、当時では恐怖の対象でも在ったワイド・クラックでの突撃クライミング?
幾つもの逸話や伝承的に、語り継がれる情報の多くは、当時のクライミング・レベルの中にあって、異質ではあった。良い意味で最も純粋な『フリ−クライミング思想』の体現地

私達、神戸『堡塁岳派』のクライマ−は、当時は関東のクライマ−が勝手に呼び習わしていた『西風』の代表の一端を担っていた、地域を岡山と広島だと理解していて、神戸は少しばかり風に乗り遅れながらも、ある時期から『西風』の名称に見合う活動が、自分たちにも行える様だと錯覚?自覚し出した頃に
『三倉岳』での、先鋭的な困難なル−トが完成し出したと言う情報が、大阪・京都の若手クライマ−にも認識され出した。それら情報は雑誌などからではなく、実際に三倉でのフリ−クライミングを体験して来た仲間の報告を聞いての事だ。

『神戸のクライマ−』には、岡山や広島のクライミング・エリアは同じ、瀬戸内圏内の岩場の一つとして、それ程の遠方の地でのクライミングと言う、感覚は無かったので、先輩達の中には70年代・以前に実際に『三倉岳』でのクライミング体験を持っている人達は、いたが、その人数は少数ではあった。

広島の花崗岩の大きな岩場としての『三倉岳』の、存在は70年代の後半時期から小豆島の岩場と共に私達の仲間の間でも、充分に良く知られた岩場の一つだったが、頻繁に修業に通う為の情熱を疎外する要因は、先に述べた『厳格なル−ルを採用した岩場』で、地元のクライマ−から叱責やプライドを傷付けられるようなクライミングを行いたく無いという、かなり精神的な理由が抑制理由だと思う。

それでも1983年の『CLIMBING JOURNAL No10』に公表された、詳細な『三倉岳・情報』は、見てしまっては、行くしか無いという理由で、私達を再び『ワイド・クラック』へと誘惑した。

チョ−ク・バックを隠し持ち?フレンズを袋にしまいこんで岩場下に立つ前に、厳しい先例をアプロ−チ途中で受けながらも、なんとか三倉スタイルでクラックを突破し、堡塁や小川山とは別種のクラック・クライミングの楽しみの余韻を、岩場トップと4合目・避難小屋で味わえた。
2007年の秋、17年ぶりに『三倉岳の岩場』を再訪してきた。回数的には、6度目の訪問、20年ほども前にチョ−ク・バックやフレンズを、恥かしい気持ちでザック底に忍ばせながら岩場に向った、4合目からのアプロ−チを歩く。ある種の感慨を持った。ソロイストにロ−プを通し、クライミングの準備を終えてから周辺のクラックを見回すと、開拓時期に状態が戻っているようなル−トとは逆に、ハンガ−・ボルト類の存在も確認できる。再び、感慨が深まる。
立地場所の問題以前に、この場所に何故??これほど立派な人工的クライミング施設が必要だったのかは部外者の私には、うかがい知れ無いが2007年の春からは完全に使用が停止されていて、この人工壁が利用されるかも不明だ。少なくとも、これは一種の『ハコモノ』だったらしいとの噂は消えない。
かっての『三倉派』の活動拠点であった『4合目・小屋』の雰囲気に近い、老朽化して傾きかけた『9合目・避難小屋』殆ど、誰も利用していないように見えるが残っておいて欲しい小屋だ。
『4合目・小屋』は、改修されて往時の面影は消えていた。立派なブロック壁に、板敷きの床面は清掃されてはいたが昔の様にクライマ−の宿泊場所として使うのには、少し雰囲気が違うように見てとれた。
『三倉岳』のフリ−クライミング揺籃期に、ここを起点に情熱を注ぎ込んだ広島のクライマ−の評価は高い。
3日間、キャンプ場を利用させて頂いた。初日は誰も利用している人はいなかったが、管理人は私一人の為に施設の電気をつけてから帰っていった。翌日は、岩国から在米(軍)の家族達が深夜に大挙して、押しかけ炊事棟を利用していたので、明け方まで文字通りの騒音に閉口してしまった。翌日、赤ん坊も背負って2家族ほどが、山頂周辺で遊んでいる姿を見たが、2泊はせずに帰っていたようだ。この『炊事棟』はキャンプ場に数箇所、設置されていて雨天時などには、とても助かる施設だろう。2日目の夜には、地元の山岳会らしき?集団が前夜と同じ、更に強烈に数々の山の話で、盛り上がって私の安眠を妨げて行った。
北海道でも感じたが、キャンプ場・利用のマナ−の悪さでは登山者やクライマ−は筆頭に上げられる。要領の良さや各種・簡易タイプの技術に長けているので屋根さえ存在していれば、我々は何処でも宴会が可能だ゜から。無料キャンプ場の施設を利用する部分で、少しは他の利用者への配慮は必要なのだが
『無料』で利用できるキャンプ場とトイレや炊事棟の施設を考えれば、文句の付けようなどあるはずは無いのだが、ここをキャンプ場として計画して、レイアウト等を考えて整地した人はキャンプの楽しさなどを、あまり知らない人なのではと、考えてしまった。テント・スペ−スは今風の家族向きテント・スペ−スではなくて、折角テント・スペ−スの中に設置されている、木製のテ−ブルや椅子の高さなども、とても使い難い設定。設置箇所にも工夫が無くて、一定の基準の上で、とりあえずは設置しておけば良いだろうという意識と一つの『区画』を設定しておかなければ、ならないだろうぐらいにしか利用者には見られない。暗く、地面は湿っていて、清掃・整備の手は少ない。快適なキャンプ環境とは言えないと感じてしまった。
『三倉岳』は文字通り、三つの山頂が連なる山容で雰囲気は『雪彦山』に似通った部分もある
外観も室内・設備も充分に立派な『管理棟』だが、クライマ−の匂い?ホ−ム・ハウスとしての雰囲気は薄く、正面入口から見上げる立派な『岩場』の、存在が近過ぎる事に比べて、少しクライマ−としては惜しい気分だ。『音楽関係』の人達に、素晴らしい環境を提供している、ハイカ−の憩いの場としても良い。
社保庁しかり、グリ−ンピアも同じく、このクライミング施設にも、誰が見ても考えても何かしら『国民の税金』との関わりを疑ってしまう。もし、広島周辺の多くのクライマ−の浄財だけで、この立派な施設が誕生していたと、すれは全く別の次元・意味で勿体無く、不合理な話しだが。
2007年10月、今回は一人で、ここ『三倉岳』を基点に神戸に戻るまでに、広島から丹後半島まで少し広範囲に岩場を巡って来て、途中に同じ様なクライミング施設を見て帰って来た。誰が、何の目的で・・・
あれば使うクライマ−は存在しているのかも知れないが、他の必要性・需要・要求の施設と比較して、これらのクライミング施設が、本当に必要だったのか?各県ともに、部外者に文句を言われる筋合いは無いと
特に、関係しているだろうクライマ−からは、お叱りを受けそうだが・・・・
『三倉岳』は、とても良いハイキング・コ−スがあり、山としての魅力も充分で他府県から訪ねて来る価値は充分にある。昔話・クライマ−話題の中でのクライミング後の贅沢『松茸三昧』は、今は昔の話だろう。周辺の厳重・制限柵の設置された松林を見れば、いかに不法な行いが行われていて、地元の人達の財産を奪っていたのかは簡単に理解出来る。今でも、一部・そう・ほんの一部のクライマ−だが、まだ『三倉岳』でのクライミングの余禄としての『松茸・採取』を、自慢する人達は存在するが、それは犯罪を自白しているようなものだ。間違っても、そういった情報を信じたりしないように。
クラックの宝庫と呼ばれる『三倉岳の岩場』だが、僅かな時間の経過の跡に、クラックが自然に戻り始めたラインも多い。ボルト類の残置にも、広島の美風とも見える少しでも、岩肌に似せての着色タイプでは無いボルトも増加しているようだ。
製作途中