







| 1972年に小型のチヨックを初めて、プロテクションとしてフリ−で挑戦された、クラック。大ハングの右に位置していて、フリ−の情報が一般的に知られ出すまでは、あまり興味を持たれなかったクラックだった。 完全・六角形の最も初期型のチヨックの、収まりが悪いクラックなので固定力に安心感を抱ける、ストッパ−の使用が可能になるまで、挑戦者は少なかった。フレンズの使用により、ハングの突破にも、弾みが付けられて安心して取り付けるようになって、西稜ハングの次にポピュラ−なショ−ト・テスト的な課題として、登るクライマ−が増えていった。テ−ピングの使用も、ジャミングの基礎的な技術も未熟だった時期には、手の甲の擦り傷の痛みに、耐えるタイプのクライミングとして、嫌われていたクラックでもあった。 |
| 堡塁岩『中央稜・下部・(南壁)正面壁』 |
| 『堡塁岩』の記憶を持つクライマ−の多くが、一度は触れた、代表的なル−トが集中した下部壁。 大きく、左側が落ち込んだ箇所の上のル−フ(大ハング)が、特徴的で、右にクラック・チムニ−状、フレ−ク・クラックにフェ−スから、カンテまで狭い範囲に、各種の課題がコンパクトに、まとまった岩場として利用者は多い。中央・岩場の台地から、ルンゼの岩場を下降して、回り込めるので休日ともなれば、クライマ−が集まるポィントでもある。取り付きは安定しており、落石は人為的な要因しか、ほぼ考えられないので比較的、安全にクライミングが楽しめる。70年代から、運動靴にチョ−ク不使用での、フリ−化の挑戦が行われていた。 |
| フリ−の意識の普及・以前の登山者・クライマ−もビブラム底の登山靴で、取り付きから正面フェ−スを左上するラインから、バンドに出てクラックに沿って突破する、現在のラインに果敢に挑戦していたが、上部は残置ピトンにカラビナを、かけて積極的にA0を使用しての、クライミングだった。それても60年代の後期までアブミを使用していた、クライマ−しか存在していなかった事を考えれば、A0使用と言えども時代的には、フリ−に最も意識面では近づいた時期の、課題への挑戦と呼べるだろう。フラットソ−ルのクライミング・シュ−ズの使用からも、初期のフリ−での挑戦はチヨックも使用せず、残置ピトンのみをプロテクションとしての課題だった。チヨック及び、カム類の使用は、僅かな時間の経過後ではあった。 |
| 完全にフリ−で登ったのが、誰なのかは判らないが登攀倶楽部メンバ−の私の仲間でもあった、中森などは70年か74年、期間に運動靴・履きチョ−ク不使用のスタイルで、A0なしのスタイルで抜群のバランス・センスを有効に活用して、きれいな登りを見せていたような気がする。 私達の仲間内での『堡塁岩』での、フリ−のテスト的な意味あいを持ったル−トの、一つだったのかも知れない。外形バンドの立木が枯れ始めた、時期を何となく覚えている。 クラックに打ち込まれた、ハンド・メイド・ピトンは当時としても、工夫された出来の良い物だったが、いつ誰が設置したのかは不明。木製の『楔』が、一時期だが残置されていた。 『堡塁岩』は、既存のル−トの全てが60年代には登攀者が毎週末ごとに、登っている人気の高い『六甲山の岩場』だったのと、苔や泥がル−ト上に存在していない環境を保っていた事も手伝って、80年〜81年に積極的に壁を清掃・整備して新たに誕生したクラック・ル−トが、誕生するまでル−ト上でフリ−の挑戦の為に、何らかの整備の手が必要と言う箇所は、ごく一部の例外・箇所を除いて無かったのは他の、六甲の多くの岩場・ル−トと大きく違う利点だった。この辺りのクラックやフェ−ス面も、そういった環境で後のチッピングも、必要性に迫られてと言う意識では無いと断言できる。 クラック右横の『フェ−ス』に、注目していたクライマ−は少人数で、最初にフリ−の課題として積極的に取り組んでいたのは『MAJ』メンバ−や、その後にサラマンの開拓・整備に着手した数人のクライマ−が目立っていた。まだ、トップロ−プ方式での、反復練習後のリ−ドというスタイルが、完全に意識面でも容認されていなかった時期なので、最初のトライは全て最初からリ−ドだった。 ただし、そういったスタイルは残置支点の悪さも、あってか、すぐにトップロ−プに移行して行った。 |
| 『堡塁岩・中央稜・下部・南壁』 |
| 『電光クラック・ル−ト/W級+』がっちりとした花崗岩フェ−スに、文字通りの形状で走るクラックをハンド・ホ−ルドとして終了点へ、抜け出る『堡塁岩』でも初期のフリ−クライミング揺籃期から、人気のあるル−トで古典と呼べる歴史を持ったル−トとして、この『岩場』に記憶と体験を持つ、クライマ−の多くに、愛着を持たれていると思う。『堡塁岩』の特徴は、デシマル・グレ−ドの採用が、国内・各地の岩場で急激に進み出した時期にも、旧来の欧州系グレ−ド・システムの系統から、日本で体系化が進んだロ−マ数字・表記の『RCCグレ−ド』が存続した、少数派の岩場だと言う事で、関東から当時のヨセミテ経験者、グレ−ド改定・委員会メンバ−としても『堡塁岩』や、他の六甲山のボルダ−を数度、訪れていて『RCC・グレ−ド』最後日?時期に評価・改定された岩場として、今でもグレ−ド・システムに二つの異なる表記が使用されているが地元クライマ−に、別段その、グレ−ド表示で大きな不満を持つと公言する者は、いない。ただ、個別に個人やグル−プ゛が公開しているトポ類では、その辺りの基準が曖昧だと言う意見で、デシマルに統一した表記も多い。また90年代には、他府県からの来訪者の意見として『堡塁基準』は、少し厳しく古いグレ−ド・システムで、5・10以下の難易度で、問題が大きいと言う指摘が相次いでいたのは事実。ただし、『堡塁岩の特徴』である、比較的しっかりとしたクラック・システムでのチヨック利用で、プロテクションの自力設置との問題は『三倉岳グレ−ド』との、比較ならば妥当・許容範囲だという意見は、関西のクライマ−は、概ね妥当だと評価している。(反対・意見はある) |
| 個人的には『電光クラック・ル−ト』は、下部ハングの『大ハング中央クラック・ル−ト/Y級+』から継続?が、論理的で美的?感覚からも当然と考えている。70年代の後半時期から、そうやって連続するフリ−クライミングのル−トとして、小さな岩場での可能性や挑戦を継続して来た、歴史も考えればハング上に入る為に取り付きから、容易な箇所を選択して、左上してル−トと考える方が、すっきりとしていない。 ただし、これは一つの『ル−ト』としての、感覚的な推薦みたいな、ものなので、取り付き箇所や方法論を『堡塁岩』でも、当たり前なのだが誰も強制はしない。まあ、飲食店での、御薦めメニュ−とでも思って貰えば幸い。 『大ハング中央クラック・ル−ト』は、フレ−ク・クラックをホ−ルドとして、意外と簡単に身体が上がるが、どちらかと言うと思い切りの良さが要求される、この感覚は『中央稜・上部のダッコチャン』の、核心部に、とても似通っている。得意なム−ブと言う方にはワン・グレ−ド低く感じる、ポィントではあるが、通常はハング出口の安定したスタンスに乗れば、後はハンド・ジャムに切り替えて登った方が楽だろう。登り始めにセットする、プロテクションを失敗すると致命的なので慎重に。トップロ−プの場合には、ロ−プがクラックに挟まりやすい、電光クラックから振られ止め支点を取ると快適だ。 最近、クラック横にハンガ−・ボルトが設置されて、以前の雰囲気は失われた感がある。 |
| 『堡塁岩・中央稜・下部・南壁 二段ハング・ル−ト/二屋根クラック/Z級(5・10c)』 81年、公表グレ−ドでは、Y級+と確定していた。『岩と雪 No92』 |
| 神戸・範囲の数グル−プが積極的に『フリ−の課題』として、『檜のフェ−ス』と共に挑戦・解決した、好ル−ト。下部『凹角ル−ト』から、(旧・檜のテラス)に出て、短いスラブを左上後、特徴的な二段ハング直下をクラック・システム利用で終了点へ、抜ける『堡塁岩クラック・ル−ト』初期の、スタンダ−ド・ル−ト。 関東勢からの、来訪者の多くからも評価が高かったクラック・ル−トとして、他府県のクライマ−にも知名度は高かった時期があった。地元・神戸から見ると、少しばかり不遇系のル−トだと思える。内容的にもグレ−ド範囲でも、80年代のル−トとして高水準ながら、あまり人気が出なかった代表格のクラック・ル−ト。理由・原因は、年代的に僅か後に、整備・開拓された『中央稜・西壁』の『サラマン』等の、クラック・ル−トの存在だ。2007年に、ここ堡塁岩でも『リボルト』が行われて『アンカ−の安全性は向上』トップロ−プも行い易くなっている。 同一・壁の中に、まとまって良い『課題・ル−ト』が、集中している『西壁』と、比較して練習・効率が良く無いという『トップ・ロ−プ流行期』の、クライマ−の優先順位・評価が大きな理由だと思われる。 (上1点・下2点の写真)戸田氏の最初の、来訪前の写真なので79年ごろ、だと思われる。 左手・肘にサポ−タ−着用が年代・判定の基準で、この頃に私は左肘を痛めていた。ハング出口からの フット・ワ−クがポィントで、身長差が表れやすい箇所だ。右凹角のクラック奥に、プロテクションのチヨックを決めてから、、一段目ハングを真ん中から超える。このポィントで右凹角に逃げるとル−トの性格が変ってしまい、グレ−ド判定から外れてしまう。フィンガ−・サイズのクラックにジャミングを決めて、ハングの段差部を上手に、足で押さえれば二段目のハングの突破。一箇所・水平の安定したホ−ルドがあるがレストし過ぎると、辛くなる。チヨックはストッパ−が当時の標準。 81年に、詳細な情報が公表されている。当時、この壁・範囲も含めて『堡塁岩』での、グレ−ド設定に 関して、関東からの来訪者に協力していたのは『MAJ』で、難波兄弟も、グレ−ド問題に関して、積極的に加わっていた。岡山の山本氏の姿も、六甲山で見るようになっていた。ただ、『三倉派』からの強い、影響を受けたというクライマ−は、いないと思われる |
| 1981年〜82年に鈴鹿の『藤内壁』と、六甲山の『堡塁岩』 が、ほぼ同時進行で『第2次RCCグレ−ド改訂委員会』メンバ− により『フリ−クライミング』基準でのグレ−ド決定が行われた。 この企画は『三ツ峠』に続いての、活動となり主要なメンバ−に 六甲山での活動から、地元・神戸のクライマ−も参加した。 この時に、1976年に暫定的に決定されていたピッチ・グレ−ド体系としての上限枠を日本の新しいフリ−クライミングでの成果を反映して、Y級・及びY級+、更に上限を確認するという事が、理解された。当時の日本のクライミングにおける『グレ−ド・システム』は、UIAAグレ−ドを基本とした、日本尺度と呼ばれる基準を長く利用していたが、アメリカ・カリフォルニア『ヨセミテ』から流入した『デシマル・グレ−ド体系』との、差異が多くのクライマ−に徐々に理解され、利用され出した時期だったので、混乱も生じ出していた時期でもあった。『堡塁岩』で現在も、使用されている基本的なグレ−ド基準は、この『第2次RCCグレ−ド改訂委員会』が1982年『岩と雪No92』の公表・記事からだ。 この『二段ハング・ル−ト』のグレ−ドが、決定したのも、この81年で、二段目のハングを越える部分が核心部とされY級プラス と評価された。なお、二段ハング右側の凹角は利用しないという 前提が、付け足されていた。 |
| 『中央稜・南面下部』古くから、右端のカンテが多くのクライマ−に利用されていた、下部壁は岩質も良くて、狭い範囲の中にフェ−ス・カンテ・クラック・チムニ−と、短い距離ながらフリ−クライミングが、楽しめる。(下・写真)の、『右クラック・ル−ト』はW級ル−トながら、少しクセのあるスタ−ト部分のクラックでの動作が面白く、初めて取りつく人には大抵、少しは難しく感じるらしい。 |
| 今ならば『室内営業壁/インドア・クライミング』に、設置されているようなバカ・デカイ?大きさが目立ってしまうサイズの『チョ−ク・バック』が、少しばかり笑える。EBから、進化したフラット・ソ−ル・シュ−ズが徐々に現代的な『ロ−カット・モデル』へと、移行し出す頃の『ガリビェ−ル・コンタクト・クィ−ル』を、履いていた頃の写真だ。右・フェ−スは、当時からトップロ−プ課題として利用されていた。 『老朽化した支点類』の多くは、残されたままだが主に終了点・下降&確保支点の『ボルト』は2007年の『リボルト活動』により、全面的に高強度の『ケミカル・アンカ−』に打ち替えられている。 中段の立木は、伐採されているが80年代に比較すれば岩場の細いクラックに生えている蔦等の除去は、殆ど行われていないので外見上は以前よりも、すっきりとしていない。特に中央稜・西面に関してはボルト類の打ち替えは成されたが、壁の清掃と言う部分では利用者の努力が要求される。 |