六甲山の岩場『目神山・南側ボルダ−』
西宮市のシンボル的な『甲山』を北側に見る、山と呼ぶには可愛らしい丘陵状・山頂部から南側の岩場は市内・上ケ原や甲陽園の住宅地からも、はっきりと見えていて昭和初期の登山者にも岩場として認識されていた。ボルダリング・エリアとして一度「クライミング雑誌」で、紹介されたがボルダ−範囲としては高距があり、トップロ−プ仮題の岩場として理解した方が正しい。
岩質は隣接する北山公園のボルダ−と同種。石切り場・箇所は六甲山・範囲の岩場としては珍しい非常に
鋭角・鋭利な掘削面が存在しているが、山腹斜面に点在する主な大岩は表面の風化が進行。
大阪方面から『六甲山』へ向う、阪急の車窓からも晴れていれば特徴的な『甲山』下に、小さな小山の上に大きな岩場が見えるので、阪神圏のクライマ−のみならず、かなり多数の登山者やクライマ−に一度ぐらいは興味の目で見られていた筈だ。しかし、実際に岩場下まで、探しに来たクライマ−は少ない。
一度『岩と雪』に『目神山のボルダ−』発見と開拓の記録が公表されたが、開拓の範囲では、記事を書いた人よりも先行・その時期も、かなり以前からクライミング対象として、利用していたクライマ−は存在していて、岩場上に残置された「ボルト類」や、ル−ト内の支点も誰でもが目に付く筈なので、その辺りの情報の調査は明らかに不充分。特に私が使用していた『刻印・打ちボルト』も存在していて、当時は老朽化して錆びてもいなかったので、少し注意深く見れば『ボルダリング課題』の為の、トップロ−プ用・支点と理解も出来た筈。
しかも、私達より以前の、多分1960年代のクライマ−の痕跡も発見できた筈なので、発見と言う部分の記録の、公表方法には大きな疑問を感じていた。
70年代から、山火事が多発する山域だったので初期に『ボルダリング課題』として、このエリアのボルダ−に接近するのは、潅木やブッシュが燃え落ちていて比較的、容易だった。車道からのアプロ−チに関しても、今現在の様に頑丈なフェンスや『立ち入り禁止・看板』も、存在していなかったので(一部に柵が設けられていた箇所は存在)神呪寺・本堂への山越え『参道』の途中から『目神山』の山頂部から尾根を経由して『南面の岩場』に出るよりも、はるかに短時間で岩場下に立てた。周辺の住宅地も、当時は造成前で岩場下に車を駐車していても、別に周辺・住人の邪魔になる事も無かった。
1950年〜68年までに、この周辺でボルダリングではないが、小人数だが実際にクライミング活動を行っていた記録は存在していて70年代には『アルミリベット』他、の当時としては珍しかった工業用リベット(拡張タイプとは異なる)ボルト類の使用練習に、この周辺の大岩が使用され出した。痕跡は、北山公園の大岩に以前ならば散見された。80年代の中頃から、急速に進行した丘陵地帯での宅地化のスピ−ドは早く、今では存在の痕跡さえも消えてしまったハイボルダ−での記録は調べようも無い。
先輩の木下氏が、堡塁で教えてくれたタイオフ練習用のクラックも今は、住宅地の車道だ。