『アルパィン・クライミング』

『多様化・細分化』その傾向が歴然とした事実として行動・スタイルに現れる『クライミング』に、おいて現在の
『アルパィン・クライミング』は数少ない、世代間ギヤップを感じる事が少ない、ジャンルだと言えるかも知れない

アルプス風の、クライミング』では、現代の『アルパィン・クライミング』を説明するには、不充分だと、私は考えています。
一般的に多くの登山愛好家や、登山に興味を持つ人達。クライミングを趣味として楽しむ人達から、見ての『アルパィン・クライミング』&『アルパィン指向』の定義や感覚的な理解イメ−ジとしては、以前とは違う範囲の広さを感じる。

私達が『アルパィン・クライミング』として理解して追求し出した頃の感覚と今・現在の感覚は明らかに違う。そう感じる理由には国内(日本)での登山・クライミングで「本番」と称され。練習から先の、より本格的な山岳地帯での活動を、かなり広範囲な「行為・活動」を表現するのに『アルパィン』と言う名称が便利だからだ。

行動を説明する『名称』には、それぞれの行為者の思い入れや、憧れ・夢や希望。それに加えて、自己充足・満足や自己の行為を、より大きく、厳しく人に見せたいと望む理由も加わる場合には、『釣り師』の表現と同じ様な、ある程度の大袈裟な表現も付け加えられる。

例としては、夏の北アルプス範囲の一般コ−ス。あるいは、もっと条件の緩やかな楽な歩行コ−スでの「登山」を、も『アルパィン』と、呼ぶ・人達も、多く。『夏の縦走形式の山歩き』に、おいても場所が南北アルプス範囲に入っているならばガイド・ブック表現にも、違和感無く『アルパィン』の言葉は利用されている。

『山岳・渓流ジャンル』の中でも、その活動を『アルパィン』と表現する者も現れている。意識・主義の現実化の中で、行われた行為を誰が、どの様に表現・説明しようと、それは、ある意味「表現の自由」だが、以前に使われていて利用されていた範囲とは異なる領域までも『アルパィン』と表現される、現実には個人的には少々・抵抗感が強い。『アルパィン・リバ−』『アルパィン・ウォ−ク』の様に、ごく最近になって使用される表現を用いるガイド・グル−プや個人の活動も登場していて、何を称して『アルパィン』か、と言う質問に、対する答えが、それぞれに存在しているようだ。

こういった『時代』の『アルパィン・クライミング』に、自分自身が信念的に・想い、考え思考し追求する『スタイル』を選択して、基本姿勢を・どこに置くか・価値基準を自分なりに、どの様に定めるかによって『アルパィン・クライミング』の定義や自分の活動・行為の表現は大きく変る。幸いな事に、私自身にとっては、今時点で自分の指向する『アルパィン・クライミング』&『アルパィン・スタイル』に関して、今更・他者からの意見や勧誘?・アジテ−ト等で、精神的にも変化を及ぼす事は、在り得ない。ただ・それを・公表する、必要性や掲示する理由も生じていない。
『クライミング』は自由と・同義語と感じて、生きて来た身には・他の人達の『表現』も、また自由で・あって・しかるべし。

『用語・表現』の、自由の中で『アルパィン・クライミング』の論理的な解釈に、最も役立つのは、この種の文献・論文として、クライマ−の多くが知りえている『クライマ−の演じるゲ−ム』だと、私も思う。

『アルプスの登攀ゲ−ム』 The Alpine Climbing Game

アルプスでの登攀でクライマ−は初めて山岳環境の全ての種類の、敵対的な条件に遭遇する。
ル−トの長さや補給といった問題に加えて、落石・悪天候・ひどい寒さ
などの客観的な危険が増大し、ベルグラのような悪条件とも向き合わ
ねばならない。

こういった自然の悪条件が、このゲ−ムの公式のル−ルを融和する
ことにになる。なぜならば「アルパィン・ゲ−ム」では、しばし、単に生還
するだけが最終的な目的に、なる事があるからである。
アルプスの登攀は、時間の消費を避けるために、可能な限り・ピトンを
打たない。場合によってはスピ−ドが即・安全と、つながるからである。

しかし、ひとたびピトンを打つと、それをホ−ルドとして用いる傾向がある。したがって、このゲ−ムでは、全ピッチをフリ−で登り切る事を要求されない。
プレィヤ−(クライマ−)への規制は、前もって自分の、ものとして己に課したル−ルよりは、それぞれの山やル−トの特性・困難度に求められる事が多い。

by lito Tejada−Florees

【危険だから・楽しい・それが、本質。そして、だからこそ・命を慈しむ】

たった1度の人生ならば、生きれる時間の中で『夢』を求める自由は大切だ。そして、残せる山での記録よりも自分の記憶の中で、誇れる行為に時間を使いたい。そして、何かしら、他の人へ役立つ事や、他の人の夢を適える為の、手助けが行えたならば満足できるように思う。
恐怖・恐怖心に打ち勝つ事は難しい。予測可能な領域を、超えた『危険』は現実に存在する事を知っているならば、簡単に『危険をを甘受』してとは言えない。それでも、たった一度きりの人生を、より濃密で充実し、自己満足の中で、より安全に楽しみたいと思う。その『安全』を説明するのは難しいが。
2006/07/03 (月) 20:12:21