『国際・障害者・年』の夏にヨ−ロッパ・アルプスの山々に、聴覚障害者が挑戦する。その・ニュ−スが出てから私の周りの、クライマ−からの反響は、はっきり大きく二つに分かれていた。一つは、それは凄い・頑張って来て・と言う当たり前だが肯定的な反響。もう・片方は、陰険で無知・無理解な反感。その、反感・感情の中身と言えば、大抵は、俺たちでさえ・まだ海外のクライミングに出て、いないのに・出る為にトレ−ニングを積み重ねているのに・なんで・ハンデイを持った・登山者が海外に出る事で、目立つのか?そういった気持ちを、直接・私達に、ぶつけて来る勇気は、ないので岩場の取り付きで、居酒屋の片隅で、山の店での会話や、それこそ、ありと・あらゆる場所で機会に、そういった噂や・話題は狭苦しい当時の、クライミング環境の中では、殆ど全て・私の耳にも入って来るし、当事者と知らずに・その話題をゲレンデで話しかけて来る様な、無神経な輩も存在していた。

それに、小さく・情報網も限定されている、当時のクライマ−関係の世界では、好意的な支援よりも、意味の無い反論や、根拠も無ければ、ハンディを持ったクライマ−や登山者との活動を、実際に体験・知っているクライマ−は、かなり珍しい存在だったから、何件かのシヨップから入って来る「噂話」・茶屋のオヤジさん・からの情報や同じグル−プの中から、直接・そういった意見や文句を他の人に述べている・人達が、誰なのかも、不思議な事に、誰なのかは、それこそ逆クチコミで私の知るところとなった。それを、知らずに・表面は好意的に・嘘の顔で私に、話しかけて来る馬鹿な男は、組織としては大きな山岳会の会長クラス。そういった連中が多かった。

出国・前夜まで・名前を名乗らず『意見』を・電話で、しつこく述べていた男が・実際は誰なのかも、偶然の情報入手で後に判明した。深夜のイタズラ電話・言いたい事は、大抵「無理だから・止めておけ」
くだらない・意見だったが、反論すれば・するほどに・その電話の主は・しつこかった。この、今ならば犯罪者として名指し出来る・卑怯・卑劣な輩が・クライマ−社会で、知った最初の、最も下劣な輩だった。
この輩の・氏名や当時の所属・組織の名称は、IBSの当時の大阪・店、店長N氏や、他の店員も知る事となった。1本の録音テ−プを証拠として、本人は、その事実を、今は知っている事だろう。

私達の世代が、特別に『差別・撤廃』とか同和教育とか、障害者への偏見を払拭するのに熱心な教育を受けていた・訳ではないし。逆に、そういった問題・意識は低かったように思う。学校では・どちらかと言うと・見て、見ぬ、ふり。

私にとっての『チャレンジド=障害者』と、知り合う機会は『学校・教育』の中には、存在していなかった。それは、後々に思うに・非常に不幸な事だったし、後に知る機会までの時間は・ある意味で・まともな「教育」では、なかったと思う。大人の世界で、不評だった友人や、その仲間が意外と、子供の時には得難い・心・通じる友に、なったり・その友人の家族との付き合いが・今で言う「国際・交流」に近い環境を得られる事も、同じ様に後になって知った。そういった事は、韓流ブ−ムの今なら別に特別な事でもない・韓国風・お好み焼き(チヂミ)を、友人の家に誘われて楽しく、食べた想い出にも残っている。生れて、初めて覚えた外国語は「ジス・イズ・ペン」では無くて生の言語としての「オモニ」や喧嘩・用語の俗に、ガラの悪い啖呵だったから。
そして、当時・今なら漠然と、ながらそれぞれの理由は理解できるが。その頃の子供には決して判らない。そして、大人達は決して・説明しない「障害」を持った、人達が『学校』では見受けられない。そして、子供の狭い「世界」の中で、知る「障害を持つ人達」とは、の疑問に答えれる「教師」 や「大人」は、本当に残念ながら・私の周囲には存在していなかった。

現在・教職につかれている方が・読めば反感をかうであろう・こんな記憶は別に「教育・教師、批判」の
つもりで書いている訳ではなくて、昭和40年代には私が記憶する範囲で「バリアフリ−意識」等の教育は受けていない。受けていても、それは『見かけ』=学校単位で映画を見るとか。その程度の授業・そういった表面上の記憶は、あっても・本当の意味での「人権」教育を、教師から教わった記憶は無い。

私の親族に関しても、どちらかと言えば・今で言う『差別的』な・国際・感覚。人種・国籍的な区別や差別意識を色濃く残していたし。そういった感覚を悪い事なのか・良い事なのかを判断出来るだけの「教育」や人生・経験を積んでいなかった頃には、当時・街で見受けられる「傷痍軍人」を・避けていた。悲しい事に、障害者を知る『教育』も、友人として出会う機会も『教育の場』では、得られなかったが・「山の世界」に入り出してから、人としての世界は広がっていく。全く、不可解な世界だが・パラリン・ピックもマラソンも、ブラィンド・スキ−も特殊で、見た事も無かった頃にも「山歩き」や「クライミング」には、障害を持った人達が参加する『自由』が、あった訳だ。

社会も、徐々に、そういった活動や果敢に挑戦する人達を応援・支援し出し・その世界の真実が世に出だした頃に、逆に、その素晴らしい「世界」に懐疑的で、かつ現実を見ることも知ろうとも・しない先輩格の
「登山者やクライマ−」そういった、全く逆だろうと思える。そういった種類の人が、同じクライマ−や登山・愛好家にも多い事が、解り出したのは私が・ガイドの職業に入る以前。やはり、他の人達とは違って「シヨップ」に・いる時間が長く。多くの登山者を見る機会を得られていたからで・その傾向が「大阪・神戸」範囲に顕著なのか、日本中・どこの地域も同じなのかは今でも判らない。

『眼が・見えなくて山が・歩ける筈は無い』

『クライミングなんて・とんでもない・危ないから止めておけ』

『そんな・無茶を何故?』

『俺達に・無理?行った事が無いから・無理』

30数年で何回・聞いたか。くだらない。

夏でも・冬でも。個人からでも・グル−プでも。

それぞれに・楽しめるのが「山」の良さ。

『サポ−タ−』に・必要・要求されるのは・・・・・まずは・ボランティア意識でも・構わない。

一時期「登山者のメッカ」アルピニズムを感じる・国内では数少ない「場」として・長野県の穂高岳・涸沢に長く・居住?滞在していた経験で。神戸や大阪から・休暇で山に出る・一般のクライマ−や登山者よりも・絶対的に多くの山に来る人達を見れる環境を持っていた。山で生きる為のアルバイト時間・生活の糧を得る為の・街での労働・時間、以外は殆ど全ての時間は山で過ごしていた「文字通りのフルタイム」の活動・期間に、街の登山者・クライマ−には見られない・全国的に穂高に来る「同好の仲間」を、私は見ていた。当然ながら、それら多くの登山者の中には、障害を持ちながら・果敢に穂高の峰に稜線に・挑戦しに来た者も・上高地からの遊歩道を苦労しながらも、景色を楽しみに来た人達も。私は実際に出合って知っている。その、頃には不正地・用のタイヤも無かったし・明神までの道は『車椅子』での通行は・かなり困難だった。今の様に対岸(岳沢側)に整備された・遊歩道・等はなかったから。

それでも。登山者には絶対的に「若者」が、多かったし。私のテントに毎年・上がって来る居候達の年齢は20歳代の学生達が殆どで、その若い世代の登山者やクライマ−が、アプロ−チにおいて、そういった障害者の通行や・登行を快く手伝う場面には頻繁に出合っていた。きっと・今よりも・障害者と交流・知り合う機会は少なかった筈なのに・山・での無償の行為には、人としての温かみや余裕が溢れていた。

その後・横尾・辺りで多数の「「視覚障害者」を見る機会が・増えて。。そのグル−プの引率者が東京の
(某・山の店)の社長で・奥様ともども・このクライマ−の世界では有名な方だと、知った。関東範囲からは。徐々にチャレンジドの登山者が、涸沢に上がって来るようになり・聴覚障害者のグル−プはテント場でも、頻繁に出会う事が多くなった。関西・その他の地域からの入山者は少なかったが、顔見知りの大阪のグル−プや、個人的にクライミングや沢で講習を行って来たメンバ−も、穂高や冬の八ケ岳に向かい出した。

一般の登山者が意識的に『障害者・支援』の活動に参加して・積極的にサポ−タ−として同行している・という例ではなくて・友人として共に・山に来た・そういった少人数の登山・活動が中心だったが、聴覚障害者の登山者は、年々・確実に増えている事は確かだった。少数だが、肢体不自由・身体的に何かのハンディを持った人達も仲間に伴われて、穂高に来ていた。その中には、故・長谷川氏を通じて知り合ったばかりのミニアコンガでの凍傷で両手両足にハンディを負って生還した方も・いて。私のテントに訪問した時には・茶目っ気で義足の片方を・私に放り投げて・私を困らせる御仁でもあった。遠征での凍傷が元で、手指を欠損した友人も穂高では・元気を取り戻して毎夜のテントの中での酒席では、私達を笑わせていた。関西に、戻り街中では思いもよらない・明るい障害者との交流が「穂高」には存在していて・その現実は「バリアフリ−」の言葉と同じだったので自宅から活動している・街に近い「バリアフリ−企画」での・クライミングや沢登り・がマスコミに取り上げられる毎に・私に向けられる「批判や非難」に、対応するのが・正直・嫌で仕方なかった。

『試行錯誤』『悲しむべき・事は』・・・・・・蹴りたい、衝動を抑えて。

ほんの、数年前の出来事。震災時に私が・所属していた「西宮市・社会福祉協議会」=ボランティア活動の窓口を・間違えて入ったのが・社協だったので。ここで、何かと・お世話になったり活動関係で助力やアドバイスを頂いていた当時から、懇意にしていた・コ−ディネ−タ−(シノズカさん)からの・紹介で、同じ街に住む『血友病』の少年が通っている・幼稚園での、遠足・等の行事に付き添って『安全確保』に・係わる・ボランティアを頼むと・声がが・かかった。最初は依頼と言う形ではなくて、他に社共・関係のボランティアで、その種類の「歩行時・安全・確保」から、遠足やハイキングで予測される・不測の事態を回避する為の『準備』を、任せられる妥当な人材が、いないとの事で・プロのガイドならば、何か方法を指導して貰えるだろうとの話しが進んで・まずは・その子供に会ってから。相談を受けれるか・考えてみましょう・その後・色々な意味で、『責任』は、重いと感じたが・この支援・活動は個人的には楽しい思い出となった。唯一・例外は布引の滝から、一ケ原への遠足時に馬鹿な「登山・関係者」と遭遇しなければ。


『小学校」に』入学すると・外部ボランティアが、学校・行事に参加するのは・現在では殆ど不可能だとの事で・彼との付き合いは・短い期間だったが・俗に「難病・児童」と称される・子供達の現実を直接・知る事が出来た。

この・少年も・その・後。お母さんと、一緒に・つい最近・四国から『車椅子』で、単身・キャニオニング体験スク−ルに参加しに来た、『葵ちゃん』との。バリアフリ−・プログラムでは、しっかりと車椅子を押してくれ・夕食のアウトドア・クッキング作業では・他の子供達と共に・せっせっと・ナンをコネ。ケバブを焼いてくれた。
この時の「『プログラム』は、前年の夏に「チャレンジは手を取り合って」の題名でNHK神戸・放送局から取材に来てくれていた女性カメラマンが、再び取材・担当者として前夜のキャンプから同行・取材を行ってくれて。夕方のニュ−ス枠で『国内・初の実施例』として・当然ながら・好意的に紹介してくれた。この・放送を見て・翌年の夏には義足・使用の少女が勇気を出して・キャニオニング体験に私の元に・やって来た。テレビの映像にも・強い影響力は・あるが。やはり・ナレ−ションも含めて・その、紹介・内容や方法による・ところが大きいと思った。これが、NHKだからと・言う訳ではないが、同じ企画で・これを民放・理解力に乏しい・担当者だったら・・・・

この『血友病』の少年と、最初の遠足に六甲山「布引の滝」遊歩道から、上流へ。コ−スは誰でも、歩ける整備された安定した「道」だが。彼の持つ・特殊性では、小さな段差や階段で・コケても・転倒しても・受ける、打撲や小さな傷が。彼にとっては・とても重大な結果として・その後の生活にも支障が生じる。

私が・想定・準備した装備は。ペッツル社の「幼児・体型用フル・ボディ・ハ−ネス」と・8mmロ−プに・軽量な安全環付きカラビナ・ハ−ネスの指定・ロ−プ結束部を・身体・後ろ側とスリングで連結して・『マリオネット・タイプ』に体重がが、かかる様に工夫して、私は確保ロ−プを絶えず、垂直方向に引き上げながら平行して・歩く。
遠足の昼食時・・・・『病気』の為に、彼には・定期的な注射が必要なので。
お母さんは、後ろから子供達の列に、ついて来ていて、子供達が楽しみにしていた・一大・行事の弁当(昼食)<を、広げ出した時。10代の後半から、六甲の岩場で顔を見知っていた登山者(男)が、引き連れて来たと見えた、かなりの人数のグル−プを後列に、待たしながら。
私の方に、近寄って来た。 先頭を歩き・いかにもリ−ダ−風情で、子供達と私を見下ろし・・・・・

後ろを、通り過ぎながら・信じられない『言葉』を・・・・今でも、あまりに腹が立つので、記憶は確かだろう。

《こんな・やつら・山に連れて・こんかったら・ええのに。・・・・あんたも・変な事やってるね。穂高とちゃうか・この時期は。・・・・その後に・何か、喋っていた様だが・・・・怒り・心頭状態に、なりかけていた私は、云々から聞いていない》

この時の・私の精神状態は・周囲に・横に園児達が、いなかったら。そして、これが、10年前の自分なら・確実に手を出す前に。立ち上がって蹴ってる・な・・・・と。

この、輩・実は(某・山岳会)の会長で。関西の、とある山域での精通者として・山岳雑誌などへのガイド文の投稿者としても・案内本の著者としても著名。しかも、国内での山岳・組織の当時の指導者・的な位置にいて、立場は・山の店でも顔がキク。この時も、中高年に、所属の若手も引き連れての大人数の、先頭。

こういった・事は。実は、特別な例ではなくて。山の世界では、30数年・前から珍しい事ではない・・・・それが、現実と、長年の経験で知ってはいても、やはり寂しく・悲しい気持ちにはなる。しかし・この『暴言・悪意に満ちた・言葉』を、何らの罪悪感も抱かずに、あれだけ多くの園児や、引率して来ていた、中高年の常識ある世代の仲間の前で・・・・よく・・恥かしくも無く。恥を知らないとしか考えられない。
高峰登山の経験があっても。隊長と呼ばれていたのかも知れないが。いくら、山の世界で著名でも、大きな、組織を束ねる技量を、お持ちでも・・・・・・多分・何か・欠けて・をられます。
その後。「店」」とか「岩場」とか、新幹線のホ−ムで、会いたくも無いのに・この御仁と顔を合わす、機会があるが・無視しています。そして、当然ながら・同じ「山の関係者」とは見ておりませんし・・同じ男としてならば・完全に、軽蔑しております。改めて・述べれば・最低レベルでしょう。

偏見とは、実は『無知と無教養』 山が、長いならば、少しは自然からの・心の豊かさ・も学びなさいね。お年も・そろそろと見受けられます。同じ事を・今度・私と子供達の目前で、一言でも
「口に出したら」蹴りますよ・・・・・

大抵は、証拠「写真」を、写しておくのに・・・・・あまりの・怒りを抑えるのに力を使い切ってしまって・・・・・

障害者は何かしら、遠慮している。そんな風に感じる事が私には多い。

『遊び』『遊ぶ事』に少しばかりの遠慮が、あるのかも知れない。

障害(身体的)に弱く、登山や他の身体的な運動に補助が必要な仲間達に何が必要か。理想は、本人達が望みや希望を遠慮せずに、意見を語ってくれる事。お互いが、言葉や意思を伝える方法を考えていこう。

疲労してくると。どうしても、グリップしている補助・サポ−ト用具に、体重が過度に掛かりだす。

平地歩行でならば、一般のサポ−タ−にも耐えれるが急傾斜に、なると上半身を含めた体力が必要になり、サポ−ト態勢を保持するのが難しく。体力を浪費する。

サポ−タ−が、背負うザック後部に取り付けた
「バ−」の取り付け位置を、ウエスト部分に下げれば加重・負担は減少し労力は軽減するが、サポ−トを受ける側は姿勢を低く保持する為の姿勢が窮屈になり、労力が要求される。
急傾斜部では、ある程度の力量と経験がある者しかサポ−ト担当は、行えないと考えた方が安全である。

一般に、これまで考えられていたサポ−トを受ける
人がアイゼンの前爪で、先導者をを傷付ける恐れは
この用具を使用していれば防げる。
簡易タイプのザックにロ−プスリング使用でのサポ−ト
方法、一辺倒の考え方や利用は考え直す時期です。