彼と出会ったのは、大阪・駅前にIBS石井スポ−ツが開店して2年目。当時、バイトに雇って貰った私が高校2年生の終わり頃だった。夕方の、店が一番、込み合う忙しい時間帯に、彼の姿を見かけ出した
いつも、カラビナやクライミング用具をディスプレイしてある壁面に立っては、幾つかの用具を手に取っては、真面目な顔で値札を見ていたので、ないだろうか。同じ・気持ち・そういった若い頃の山の店での、新しい用具類を手にする時の気持ちは、私も同じだった頃だから・・・客で、込み合う店内を・忙しく送付・荷物や補充品を取りに階上の倉庫に、取りに上がり降りして・途中に何度か彼に、声を・かけた。店員が大人しそうな、お客さん・にかける定番だ。いつも、返事は・なかった。何度かは、明らかに真横や・真後ろの、ごく近く・腕が触れ合うほどの距離での事だが、振り向きもしなければ・私に興味の視線も向けない。何度目かに・少しは気分は悪かった。声が、聞こえていない筈は・ないからだ。彼が反応を見せれなかった「理由」は、それから、すぐに私も理解する。その日は、珍しくレジの前に、彼が立っていた。気が付けば、何かを(もう、それが何だったのかは忘れた)買う、つもりで、その品物を私に指し示す・・金額を示すタグが、付いていなかったので私は、レジのキ−を押すために視線を下に向けた・ままで彼に金額を・・・少したって、じっと・私を見ている、彼に気が付く。手にした、品物を片方の手で、指し示しながら・困ったような・少し悲しそうな視線で・・・・その、時に・判った訳ではなかったが、彼の耳は聞こえないのではと・思えた。その時の事は・それ意外の記憶が、はっきりとしない。
筆談で金額を、教えたのかも知れない。彼が私の唇の動きで、金額を理解したのかも知れない。もしかしたら、その時には、払えなくて買わずに帰ったのかも・知れない。その辺りの記憶が、今は想い出せない。

出会いは、そんな事からだった。

私に、とっては聴覚障害を持った人との、交流や付き合いは、それまでの18年間の短い人生の中では友人も親戚も、近所の知り合いも含めて。誰一人・なかった。手話の存在、恥かしい事ながら当時は、そういったコミュニケ−ションの方法を使っている、人達も・いるんだ・その程度の理解だった。
言葉が、通じない訳ではない。ただ、お互いのコミュニケ−ションを取る、方法が少しばかり、いつもとは違うんだ・そう単純に考えた。それから、彼が店に立ち寄る回数が増えた。相変わらず、店の忙しく。
バイトの身で・コキ使われている私の身では、彼の傍によって気楽に立ち話?そんな自由は、その時には持ち合わせていなかったが、店長は何回か、彼と私の交流を見ていて『理解』を示してくれた。

当時の記憶は、曖昧だ。店の中での彼との会話は、もっぱら筆談に頼る事が多かった。手話は全く、理解する方法を知らなかったし、彼も喋るのは、苦手なようだった。彼の「声」の、記憶が私には無い。
もう、30数年も過去の事だからか・それとも、忘れてしまったのかも知れない。数年に、一度・不思議な事に山では彼の「記憶・夢」を見る。記憶とは・違った場所や年代で、やはり彼が喋って来ることは無いが・・・

数年後に、私が帰国してから黒部・剣方面に定着している時には・彼を誘った記憶が無い。同じ様に、聴覚に障害を持った、青年2人と、やはり店を通じて知り合っていたから・彼らとの記憶も混ざっているのかも。

『穂高』に入り始めて3年目・辺りだったろうか。当時・徳沢で・越冬担当で冬は・篭り切っていた、若い友人とパ−ティを組み・その友人の確か・広島の同じく若いクライマ−も加えて、明神2・263m峰にル−トを開きに入山していた頃だったか・横尾の岩小屋に定着する前の年だったか・街で久しぶりに会った彼と・今夏は一緒にクライミングしようと約束した。その、前に六甲の岩場で彼には少しばかりクライミングの手ほどきを行って・・必要な装備・等も教えておいた。

その、彼との約束の「場所」は、上高地の小梨平・野営場。まずは・合流したらル−ト開拓だ、そんな話で彼との、山での再開を楽しみにしていた。待つ間に、偶然・大阪から消えた?そんな噂が仲間内に広まっていた某・氏と河童橋で出会って・詳しい経緯は敢えて・その時は詮索しなかったが・色々と難しい問題を抱えて、この上高地に逃げて来ている事だけは判って仲間として、周囲の岩場に一緒に、開拓クライミングに出たりしていた。
再開を待つ・彼とは数ヶ月前に連絡を取って以来、当然だが電話は役立たない為に、『約束』の日時を待つしか方法は無く・その「当日」は・過ぎた。そして、無為に・彼を待つ日が・数日・過ぎて。仲間の一人は、もう来ないだろうと私に言った。それでも、当時は『聾唖の友人』との・口約束は絶対・・・何故ならば、今の様に携帯メ−ル等の連絡手段は、あり得ない。だから約束は確かな、ものだったから。入山して来る事を信じて・更に2日・待った。
そして、3日・目に一端、私は神戸に帰る事として・仲間達の何人かは穂高に残り、一人・休養も兼ねて私の自宅に戻ると。『速達』が、届いていた・・・・

内容は。正直・その時には書かれている内容の意味を・理解出来なかった。

彼は、穂高に・入山していると。そして・上高地では、なくて岳沢にて『消息・不明』遭難したと思われる・・・・・
何が、何だか判らないままに・すぐさま・彼の実家に電話を・・・お母様が・電話に出る。
装備を整えて、その夜に上高地に急ぎ・立ち戻って。岳沢へ・・・・・

「岳沢ヒユッテ」の・オヤジサン・懇意にしている番頭さん・に直接、彼の情報を聞く。彼がテントを張っていた場所・そして小屋の横を通り過ぎる時に目撃されていた話し。番頭さん・の話で、彼が一人で、ここに上がって来て。一人でコブ尾根に向った・事は理解した。しかし・それが・何故なのかを、今も・私は理解していない。

彼の『捜索』は、困難を極めた。天候の悪いシ−ズンでもあった。彼からの連絡が・途絶えた日時や、彼が残していた計画書の存在は、何故か曖昧なものばかりだったし。私との『最初の約束』では、予定日に、上高地の「小梨平」私が定着している・目立つテントでの・合流が・目と鼻の先の河童橋を渡って・何故「岳沢」に登って・しかも単独で『コブ尾根』に向ったのか・?・彼の計画では、槍ヶ岳の「北鎌尾根」を登り。槍ヶ岳から、降りたら・稜線を周らずに直接・上高地に降りて来ないと私と合流しての、クライミングの日程に間に合わない・それを充分に理解しての山行・日程を取っての穂高岳への入山・その筈だった。それを・どうして・何故・大きく変更したのかは理由を知るのには長い、調査期間が必要だった。後に・多くの方々からの聞き取り調査や・断片的ながら、彼と出会った登山者の方達から聞き取った情報で、彼が北鎌尾根に入山・初日あたりに、誰かに熊の出没情報から入山・停止を勧告されて、一度・山を降りて再度・上高地へ入った事が判明。しかし・前後の日程を考えると、何故・小梨平に立ち寄って私に会わなかったのかは・今も・これからも決して理解出来ない・何故だか理由が説明出来ない。

その・シ−ズンは例年に無く『雨』が、降り続き・残雪が消えていくのも早かった様に記憶している。
御家族が・上高地に入り。そして、何度かの「岳沢」への捜索も・彼の発見には、つながらず。そして民間のヘリ・コプタ−をチャ−タ−しての・高額だが・効率的であり・そして、何よりもご家族にとっては彼の居場所を見る事が出来る唯一の手段。だが・それも・徒労に終わった。季節は変り始め・私の捜索・活動も終えなければ・ならなかった


あれから。もう・数十年もの年数が過ぎた。殆ど、毎年・私は穂高に入山している・そして・上高地から見上げる「岳沢」への視線には少し変化は・あるが。当時の記憶が・薄れても・彼の想い出が消える事は無い。『何故』と言う気持ちも消えないが・当時を振り返ればコミュニケ−ションの手段としての『手話』を、もう少し・私が本気で学習していれば・・・・・少しは・彼との連絡が・とも・思う。「岳沢ヒユッテ」に、立ち寄ったり・宿泊する毎に・番頭・さんとの話題には彼が出て来る。もう30年・以上も前の事なのに・その話題が・つい数日前に・私が急ぎ・微かな可能性を信じ・信じたかったのかも・ヒユッテに駆け上がって来た日に・聞いた・話した内容だ。

テント場から、上がって来る彼が聾唖・聴覚障害者だと言う事を知っていた。そして、隣にテントを設営していた登山者も彼を、覚えていて・喋らなかった事も・ヒユッテ横を通り過ぎていった事や・喋れていたら・番頭さんとの会話も・あった事だろう・そういった・だったら・・・の・話も・いつも。

つい、最近(2005年5月)この時も二人の参加者と、共に岳沢に上がって来て。前夜は「岳沢ヒユッテ」に宿泊、そんな会話を。その時にも・・・・・・翌日は・岳沢から『奥穂高・南稜ル−ト』に取り付き。トリコニ−を越えた、雪の美しいプラ−トに快適、雪洞を掘ってビバ−ク練習。彼を・身近に感じた夜だった。
良く晴れた美しい残雪期・特有の光溢れる稜線を・山頂からジャンダルムを越えて・ガイドしながら見下ろす「コブ尾根」には一組のクライマ−。彼も無事に登り・到着していれば。この・周辺に上がって来たろと、つい想い出が甦ってしまう。

『記録』は公表しなかった。

試登時に・畳岩から・稜線のグラ−ト・ツルムの隠れた名ル−トを再登して
ついでに・1本・簡単なル−トを開拓した時の「記録」は『岳人』に・記録としてではなくて・ある種エッセイ風の文章としては出した。

『メモリアル・ル−ト』の開拓1本は・当時のパ−トナ−・何時もの様に神戸のN君が付き合ってくれて開拓したが・・・記録とかは出さなかった。

『彼』も・参加する筈だった壁での開拓

結局・3度の開拓・三つの季節の中でのクライミングは長野の友人達や・常駐隊のメンバ−で、当時・冬になると居候でスキ−を楽しませて・頂いたオチ・サンと楽しんだ壁。

メモリアル

【5月・穂高・岳沢】

シャモニ-針峰群からの悲報。CMS『ドン・ガルウェル氏』逝く
『写真・左端』シャモニ-・ロジェ−ル・キャンプ場にて夕食を共にする

私達は、ビオナセイの美しい氷壁から、ボス山稜に抜けてのモンブラン山行からグ−テ小屋に入った。
彼等2人と、偶然に出会ったのは小屋の中で、私が声を掛け。ガスコンロで沸かした、お茶を一杯・・・
何時もの事だったが、あの場所で「視覚障害者」と、出会ったのは当時の私には、非常な驚きであり。
そして、とても、うれしい感動を感じてもいた。

彼らは、英国から『モンブラン登頂』を主目的に来ていた。一目でガイドだと判る、私には判った。ドンは
静かに語る、落ち着いた雰囲気を持った。英国でも珍しいタイプの「クライミング・ガイド」だ。お互いが
使っている「ガイド・スク−ル」の名称が、面白い事に、中に入る順番が違うだけの偶然を、二人で
笑い。お互いが、ガイドとしての職業に、殆ど同じ『夢』や指向性を持っている事に気が付くのに、たいした時間は必要なかったので会った、その日から仲間として身近な存在だと感じていた。

私は、彼の人柄と共に、あの高所に視覚にハンディを持った仲間をガイドして、上がって来た現場を見られ。シンパシィ-・共感を超えた『尊敬心』で、彼をガイドとしても数少ない見本として、見られる『先輩』だとも思った。私達のキャンプ場は日本人クライマ-の定宿的な場所。彼らも、同じ様に当時の英国クライマ−達が集まる氷河寄り、のキャンプ場。お互いが自分達のキャンプ地に夕食を招待したり、一緒に街でカフェの時間を楽しんだ、想い出は今も記憶の中で楽しい。帰国時、若い仲間にスコットランドに行く事を強く、薦めた。私の経験した、素晴らしい人達との出会いを、彼にも体験して欲しかったから。

英国に渡れば。彼もいる事だし、若い仲間を送り出すのには最適な環境だと思った。その想いに彼は応えてくれたが私は、日本に帰国してから、彼と親密な連絡は取れない状況・時期だったので。とても、残念な事に次ぎの機会に、彼と一緒にクライミングを楽しむ時間が得られなかった。彼の元で、世話になった若い仲間から、その後ドン氏が、シャモニ-針峰でクライミング中に亡くなった事を聞く。
大きな、喪失感と悲しみ。再会するために、努力すべきだった。バリアフリ-・クライミング&ガイドとしての、学ぶべきものが、あったのに・・・
           冥福を、お祈りしています。『汚れなき、山で』再び、再会するまで
1980年代に全盲者の挑戦としては驚くべき意欲だったと思う。。当時の日本での障害者・登山や本格的なクライミング等の、活動・状況や「山の世界」の理解度や認識を思い返せば・・・・・良い、見本として語る事が、多かったが。当時、正しく、理解してくれる人は、とても少なかった。
今ならば、と思う。プロガイドとしても、人としても尊敬できる男だった
四季を通じて『本当に美しい』
行って来ます、その言葉を残して帰って来なかった若い友人が三人
『お互い様』救助、その後・・・・・とても、惜しいと思っています。