記憶に留めて置きたい男であり。好漢・将来の夢『』を共にと話し合っていた記憶も
被災後に残っていた『各種・資料や手紙』そういった「紙物」
の少なさに、かなり落胆した。
特に、ケ−スや防水処理に工夫も、考えなかった「家中」で
損傷・紛失してしまった過去の記録は、取り返せない。。

彼からの幾つかの手紙も、この1枚しか手元には残っていない。
彼が、遺体となって涸沢へ、空中から吊り下げられて。
戻って来たのを、見上げ。雪上に降ろされたのを確認してから、自分の天幕に戻り、生まれて初めて泣き叫んだ。恥も、なくして、誰一人・居候達も近寄らせずに、天幕の中で一人、暗くなるまで地面を叩いて、泣いた。
ガイド協会の「森先生」や岳兄の広瀬氏、達と涸沢風の「シェルタ−住居」を作った時や、台風被害の最中にも彼は近くにいたようだ。残された、写真は意外な程に少なかった。

2度目の開拓クライミングの現地で、前回に登り詰めた快適な部類に入る「レッジ」から、ギア類を彼に譲り渡して行って来いと。スタ−トから、優しい草付のホ−ルドも豊富なスラブを、彼は慎重に登っていったチムニ−状の入口から、彼が右の岩場に登り始めるのが見えた。チムニ−には入らないようだが、私は何もアドバイスを行わなかった。何故なら、少し右の岩を登ってからでも、ほんの少しの距離で安定した『強度が期待』できそうな立木が確認出来たから。ル−トを延ばせなかったら、立木を支点に簡単に戻れそうだと読んでいた。

立木の手前の、細い潅木に彼が中間確保にスリングを巻いているのを見ながら、少しばかり不安を覚えた途端に彼は落ちた。確保体制は万全だったし、アンカ−にも不安は無かったがスラブを通過してからのロ−プは最後の支点まで、幾分ゆとりが長過ぎていた、そして潅木に取り付けたスリングは役目を果さなかったので墜落距離は無用に長く。彼の停止位置は我々から、それ程・遠い位置ではなかった。心臓の鼓動は高まり、墜落の衝撃を受けた身体を元の位置に戻して、すぐさま彼の収容作業に入る。レッジに彼を降ろして、意識や負傷の程度を素早く確認した。幸いな事に、大きな外傷は負っていず、意識の混濁や頭部強打による吐き気や、最悪の状態は免れていたので比較的、容易に登って来た「壁」を、それほど時間を要せずに3人で下降して、涸沢に戻る事が出来たが、墜落後のシヨックと少し頭を岩に打ち付けた後遺症か、レッジでの会話で怪しい、意識と前後記憶の喪失を認められたので彼には、すぐさま下山しての精密検査と病院行きを言明しておいた。
その後の、彼からの連絡で『大きな障害も無く』墜落時の負傷で何かしらの影響は無いとの安心出来る報告を聞く。

『メモリアル』 北穂高岳・滝谷から、還って来なかった若い友人の記憶と想い出

『花屋』さん、で働いてるんです。そんな風に聞いて、彼らしいと感じた記憶が残っている。

『彼女』は、出来たかな。そんな会話の中での答えや、学生時代の山仲間達の同行と、自分の将来・・・・
断片的な『記憶』は、今は想い出となった。

一度、彼の実家にお母様を訪ねた事があった。彼の部屋と遺品にアルバムを見せて頂き彼の笑顔を思い出し帰った。
彼と共に『開拓クライミング』で登った『壁』に、その後
手を触れに上がっていない。
県警メンバ−や、私の居候の少数のメンバ−にし知られていない隠れた『岩場』だが、もう一度・・・とは考えている

同行者は見つからないかも知れない。一人で頂上に抜けても彼なら、笑って出迎えてくれそうだ。
『遭難の原因』理由は判らない。
滝谷には、隔離された環境があり、彼らの事故の原因が何だったのかを目撃していた人は、いない。
当日、彼らが涸沢のテントに戻らなかった事は、心配だったが事故を起こしていたとは思わなかった、思いたくなかった。
私自身は過去に、40数回のクライミングを、この岩場で体験していて。頭上範囲からの大規模な
『落石』を3回。下降路上で、危険極まりない全体・岩崩を2回・経験している。

小規模な『落石』は、この岩場を知る者ならば、大抵は経験している範囲で頻繁に経験しているので、この岩の墓場とも形容される『岩場』が、他の岩場と比べても外的な『危険』が高いことを知っている。

激しい遺体は、痛ましさを更に感じる。
舟橋 健
共に『夢見た壁』取り付きにて